パニック障害と妊娠・出産 臨床医にとってもっともうれしいことは、大変苦しみ悩んでいた患者さんが元気な姿になられるのをみることです。先日Bさんが生後40日のかわいい赤ちゃんを連れて来院されました。Bさんは妊娠4ヶ月でパニック障害が再発し、なごやメンタルクリニックに受診しました。Bさんは妊娠を理由にとても薬をやめられるような状態ではなく、イミド−ルとクロナゼパムによる強力な薬物療法を続行しました。日に数回も激しいパニック発作に襲われていたのです。パニック発作の苦しみはかかった人にしかわかりません。特に、精神的な苦しみ『不安とうつ』は体の病気のように目に見えるものではありませんから、周囲の人はなかなか理解してくれません。パニック障害という病気そのものによる不安・恐怖もさることながら、彼女は未婚の母で、一人きりになる夜の不安は特別なものでした。毎夜襲ってくるパニック発作とともに孤独感と出産に対する恐れが重なり、その苦しみは筆舌に尽くせないものでした。ただひたすら新しい生命の誕生を願い彼女は耐え、闘病生活を続けたのです。そのBさんが自分にそっくりなかわいい赤ちゃんを連れて来院してくれたのです。私は五体満足で元気な女児をみて胸をなで下ろしました。「愛らしい赤ちゃんの顔を見ているとパニック発作の恐怖は忘れてしまいます」とBさんは明るい表情で元気に話してくれました。Bさん以外に、なごやメンタルクリニックに来院された患者さんの中で妊娠中に断続的または継続的に抗パニック薬を服用しながら元気な赤ちゃんを産んだ女性が三人います。 パニック障害は大変ポピュラ−な病気です。最近のアメリカにおける大がかりな研究では100人に1人から3人の割合でかかると報告されています。この数は日本の人口を1億とすると100〜300万人のパニック障害患者がいることになります。欧米では、パニック障害は男性に比べ女性に二倍も多いといわれていますが、日本ではほぼ同数です。なごやメンタルクリニックに来院した女性のパニック障害の発症年齢は三四歳がピ−クでした。すなわち、パニック障害の発症は妊娠・出産の機会が多い年齢ということができます。私は平均して月に数人はパニック障害の女性患者の妊娠・出産に関する相談を受けていますので、今回は女性性とパニック障害の問題について最新の医学情報を示しながら少し詳しく解説しましょう。 1.パニック障害と妊娠・出産 昔からうつ病を始めとする多くの精神疾患は妊娠により症状が軽くなったり治ってしまい、出産をきっかけとして発病したり症状がひどくなると考えられてきました。パニック障害生みの親であるニュ−ヨ−クのコロンビア大学クライン博士は、その初期の論文で、発病促進因子の1つとしてホルモンの変動を考え、お産の1ヶ月後に発症した婦人3例、お産の1週間前の婦人1名の例を挙げています。また、クライン博士は、妊娠中にはパニック症状は改善する例が多いと報告しました。この問題に関して4つの初期の研究や報告はこのクライン博士の見解に賛成するするものでありました。しかし、症例報告ではなく統計的な追跡調査では、必ずしもクライン博士の説を支持する結果を示すことにはなりませんでした(表)。 これらの研究をまとめてみると、パニック障害は妊娠や出産という出来事に影響を受ける人も受けない人もあり、そしてそれは好影響のことも悪影響であることもあり、一定の傾向がみられないといえます。また、一般に、授乳中はパニック障害の症状は和らいでいるか消失していることが多いようです。 妊娠や出産によりパニック障害が軽快したりまたは悪化するということは、妊娠・出産が神経系に種々な作用をしている結果であると考えられます。妊娠により数十倍に増加するプロジェステロンなどの女性ホルモンは、抗不安作用をもっ・トいますから、パニック障害には治療的な影響を持っています。プロジェステロンは、他方、呼吸中枢を刺激する作用があるので、過呼吸を誘発しパニック発作を起こし易くすると言う学者もいます。 2.パニック障害と月経 米国のブライア−ら(1986)の研究によれば、女性の広場恐怖症患者の半数は月経前に不安症状が悪化したと述べています。その後の研究でも、月経前または最中に不安症状が増加することが報告されました。クック(1990)は、月経前の不安の増加を79%の、パニック発作の増加を58%の、そして、広場恐怖症による忌避行動の増加を47%の婦人に認めました。しかし、後から振り返って調査するのではなく、計画的に追跡調査すると、パニック障害患者でも正常対照者でも月経前に明らかな症状の悪化は認めらないという研究もあります。 3.パニック障害の治療薬が胎児や新生児に及ぼす影響 パニック障害の薬がどれくらいの割合で胎児奇形を起こすのでしょうか? イミプラミン(商品名:イミドール、トフラニール)を代表とする三環系抗うつ薬については多くの研究があります。胎児の体の基礎ができあがる妊娠前期に三環系抗うつ薬を服用していた婦人414名が調査され、薬により先天性奇形が増加しているという事実は見つかりませんでした。これに関する10以上の臨床研究を見渡してみると、三環系抗うつ薬は胎児奇形に対して比較的安全な薬であるといえます。 妊娠中に飲んだ薬が産まれてきた後の子供に影響するかどうかも研究されています。三環系抗うつ薬を投与した動物実験では、生下時体重が少なかったとか、身体の発育や反射運動が遅れるとか、社会性が低下しているといった結果が示されています。しかし、これは大量に薬を投与する動物実験の話です。ヒトの場合、三環系抗うつ薬を服用中の婦人から産まれた子供を少数ながら3年間追跡した臨床研究によりますと、運動や行動の発達は正常だったということです。 現在、パニック障害にもっともよく使用されているベンゾジアゼピン系抗不安薬はアルプラゾラム(商品名:ソラナックス、コンスタン)です。一般人口で口蓋破裂や兎唇が生じる割合は10、000回のお産に6人(0.06%)ですが、アルプラゾラムを妊娠前期に服用していた婦人ではその比率は11.5倍になると報告されています。ですから、この薬は妊婦には推奨できません。同じベンゾジアゼピン系抗不安薬の中でもクロナゼパム(商品名:リボトリール、ランドセン)は比較的安全です。妊娠初期のマウスに11日間この薬を投与した時の奇形の割合は367の胎仔中10(2.7%)で、母マウスに薬を投与していない1147の胎仔中15(1.3%)で、薬を投与した方が約2倍多かったのですが、統計学的には変わりがないという結果でした。ヒトの場合、妊娠中に種々な期間0.5〜3.0mgのクロナゼパムを服用した25名のパニック障害の婦人の胎児には奇形は全く認められなく、生下時の異常も認められなかったという報告があります。ですから、妊婦のパニック障害の抗不安薬治療はクロナゼパムがもっとも安全性が高いと考えられます。 4.妊婦のパニック障害の治療はどうするか? 薬を飲んでいるときに妊娠したから奇形児が生まれるので人工妊娠中絶するとか、薬を飲んでいないから絶対に安心だとかといったオール・オア・ナッシング的な極端な考え方をまず捨て去ることが大切です。Bさんのように薬を飲みながらパニック発作の不安・恐怖を和らげ穏やかにお産をし、五体満足な立派な赤ちゃんを産んだ例も少なくありません。薬なしでパニック発作に耐え毎日不安にさいなまれることは、母体に流れる不安物質が胎児の体に移行するとも考えられます。妊娠中に激しいパニック発作が起こり流産してしまった例が外国では報告されています。要は、薬の胎児に及ぼす危険性と、薬を飲まなかったときの苦痛・危険性のどちらが大きいかを天秤に掛け危険性の少ないほうをとることです(図参照)。 最後に、パニック障害の女性はどのようにして妊娠に臨んだらよいかについて述べましょう。最も望ましいのは計画的な妊娠・出産です。妊娠前に病気を治してしまうのが理想的ですが、パニック障害は頑固な慢性病ですから、必ずしもそうなる患者さんばかりではありません。発作が半年以上起きていない人はゆっくりと主治医に薬を減量してもらい、ついには薬なしにまでこぎ着けます。認知・行動療法は服薬量を減らすことを可能にしますし、時にはそれだけでよい状態を保つことができることもあります。どうしても、断薬できない患者さんは、妊娠前に胎児に対する影響が比較的安全な薬 −イミプラミンやクロナゼパム− に変更してもらいます。そして、できるだけ少量にし、症状の消長により断続的に服薬し、調子が良ければ断薬します。このような場合クロナゼパムがイミプラミンより速効性であることからファースト・チョイスになります。服薬中に不意の妊娠が明らかになってもあわてる必要はありません。最近の妊娠反応テストは鋭敏で正確ですのでごく初期に妊娠が分かるようになりました。妊娠第6週までは薬を飲んでいても胎児に到達していませんから、心配をする必要は全くありません。 (参考文献:Altshuler LL et al,Am J Psychiatry 1996;153:592 貝谷久宣他、臨床精神医学講座第5巻、中山書店、1997) 医療法人
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