プチうつ病

先日ある女性雑誌から取材の申し込みがありました。“プチうつ病について話を伺いたい”とその雑誌社の女性記者が話し始めました。私は、“そんなうつ病は私の専門ではありません”と怪訝な顔をしました。そうしたら、その女性記者は“先生がクリニックのホームページで非定型うつ病と書かれている若い女性のうつ病ですよ”との返答があり、私も納得して取材に応じました。プチうつ病とはまたうまい言葉を使ったものだと私は感心しました。“プチうつ病”は、社会生活は普通に出来ていて、それほどひどくなく、そして少しブルーでこころの襞がある、といったかっこよい印象を与える言葉です。しかし、実はそれほど軽視できる状態ではありません。DSM‐W TRという米国精神医学会の精神障害の診断基準があります。これには大うつ病性障害と小うつ病性障害という言葉があります。ここでいうプチうつ病はこの診断基準でいう小うつ病とは異なります。大うつ病でも小うつ病でも“ほとんど一日中、ほとんど毎日2週間以上続く抑うつ気分”という状態が診断条件です。しかし、プチうつ病はほとんど一日中ということは少なく、一日のうちの夕暮れだけとか夕食後独りになったときだけとかある一定の時間だけに不安になり、気分が落ち込みます。しかし、このような状態が長期間続くと、ほとんど一日中、ほとんど毎日の本格的な重症うつ病に陥ります。プチうつ病にかかっている大部分の人は、これは自分のいくじのない性格のせいだと思い、病気とはみなさず、なかなか医療機関を訪れません。状態が悪化し激しい抑うつ状態や、学校や職場を続けて休むことが起ると、やっと家族や周囲の人が尋常ではないと気づくのです。
プチうつ病といわれている間は良いですが、このうつ病が本格的に発展すると非定型うつ病というれっきと診断される、結構やっかいな病気となるのです。このうつ病は普通のうつ病と大きく違う点がいくつかあります。第一に、
気分反応性ということです。これは診断基準からだけ見ると、楽しい出来事に反応して気分が明るくなるとされていますが、しかし、現実には、些細な悲しい出来事に気分がひどく沈みこむことのほうが多いのです。マンション購入のくじ引きに外れたからといって1週間寝込んでしまった女性がいます。大切にしている飼い猫が足に怪我をして出血して帰ったら一晩泣き通したという学生もいます。そのような出来事で以前はそれほど落ち込むことがなかった人でもこのうつ病にかかると感情が非常に過敏になります。高校時代の親友に久しぶりに会ったら、はしゃぎ過ぎて気分が高揚し、一晩一睡も出来なかったとある主婦は話してくれました。要するに、気分のアップダウンが激しいのです。このプチうつ病では感情の過敏性は人間関係にも現れます。これを拒絶過敏性といっています。それほど深刻ではない批判、軽蔑、侮蔑、拒絶的態度に対し過度に反応します。すなわち、落ち込み、怒り、引きこもりがみられ、深刻な社会的または職業的障害を引き起こします。ある男性の患者さんは職場の上司に髪型のことで少し注意を受けた翌日から欠勤するようになりました。ある短大生はボーイフレンドから“情熱的な唇をしているね”といわれただけで、みだらな女だと思われたと信じ込み、3日間自室に閉じこもり、その後は彼に会っていません。アンガー・アタックも感情過敏性の代表的症状です。これは、いわゆる“キレル”という状態です。これが家族に対してだけ生じているうちはまだ良いですが、家族以外に向けられると深刻な問題が生じてきます。ある男性は車の運転中に追い越し車線から無理に割り込まれ、カーッと来てしまい、その車に覆いかぶさり停止させてしまいました。そして乱闘騒ぎを起してしまったのです。普段は気の優しい小心者の彼がするとはとても思えない大事件でした。またある女性は百貨店で店員の言葉遣いが失礼だといって支配人を呼び出して1時間近く怒鳴り続けました。この女性も学生時代は華道部の部長を務めた学内では淑女で名のとおった有名な人でした。ここで知らなければならないことは、アンガー・アタックを示した多くの患者さんは、事後強く自己嫌悪感を持ち、また、落ち込むのです。ここが周囲の人の対応に大きな注意を要するポイントです。
非定型うつ病ではこのような精神的な症状の特徴とともに身体的にも特異な症状が出ます。そのひとつは
過食です。夜になると甘いものが欲しくなる人が多いです。1ヶ月で2〜3キログラム太ってしまう人はまれではありません。太ったことに対してまた強く落ち込む人がいます。このために心療内科・神経科 赤坂クリニックでは肥満に対する集団認知行動療法を始めました。過眠も良く見られる症状です。どれだけ寝てもまだ眠いと訴えます。昼寝も含めて1日10時間以上週に3日間以上眠る場合を医学的には過眠といっています。生理的にも寝すぎると頭の働きが鈍り、気分は憂うつになり、何もしたくなくなるものです。ですから、私は患者さんに眠り過ぎないように指導していますが、なかなか困難のようです。もうひとつある非定型うつ病を特徴づける身体症状は鉛様麻痺です。これは手足に鉛がついたように全身が重いということです。全身倦怠感の重度なものです。このような極度のものもありますが、多くの場合疲れやすいと表現されます。このような眠いとかだるいといった症状は本人にとって好ましくないことがあると悪化します。そして、本人にとって好ましいことがあると軽快します。ですから、彼から少し冷たくされ、体が重い眠いと言って3日間も寝込んでいたお嬢さんが、彼からデートの誘いがあると、悲劇から喜劇にテレビ・チャンネルを変えたように軽やかに行動します。このような状態を見て、家族は患者さんのことをお天気屋とか勝ってよしのわがまま者とみなしてしまい、また病状は悪化します。この局面は家族が患者の行動を病的症状として対応すべき重要なポイントです。
ここに述べたプチうつ病や非定型うつ病はパニック障害の患者さんにみられるうつ病です。もちろん、パニック発作のない非定型うつ病もありますが、多くの場合その前駆症状とも言うべき症状が見られます。それは、満員電車で息苦しくなって途中下車してしまったとか、人いきれの中で胸がどきどきしたなどと訴える患者さんが半数以上います。パニック障害で非定型うつ病を示す人、非定型うつ病からパニック障害も発病する人、非定型うつ病のままで経過する人がいます。
プチうつ病になる人は何かなり易さを持っているのでしょうか? 私は多くの場合、小さい頃は“よい子”だった人が多いようにおもいます。“よい子”とは、手間のかからない子、しっかりした子、他人の面倒をよくみる子、優等生と言葉を変えて言ってもよいでしょう。よい子はよい子にならざるを得なかったのです。それには生来的な問題もありますし、生育環境的な問題も含まれています。生来的な問題としては、元来、小心、他人配慮性の強い性格の持ち主のことです。生育環境には動物的愛情飢餓環境と一口に言ってしまえる状況です。動物的愛情飢餓環境のもっとも単純な形は幼少の頃から母親との接触が少なかった人です。これには専門職、たとえば、教師、看護師、会計士、医師などをお母さんに持つ人が多いようです。私は多くの患者さんの様子をみて、“三つ子の魂百まで”と昔から言われているように、3歳までは母親自身が直接育児して、充分な愛情を注ぐべきだと強く思います。動物的愛情飢餓状態は母親が養育していても、その母親が情より理が勝る人であると生じることがあります。動物的愛情飢餓状態の子供では正常な自我が発達しません。常に、自分に自信のない状態が、円滑な人間関係を成立させることを拒みます。そして、他人の顔色ばかりを伺う人間が出来上がっていきます。パニック障害も非定型うつ病も、他人の顔色を伺い、自分を押し殺す生活が続き、それが続けられなくなって破綻を起した状態だと私は考えています。ですから、私は、これらの病気の本当の治癒は、病的症状がなくなるだけでなく、他人の顔色ばかりを伺う態度がとれ、自分の言いたいことや自分の要求を相手の気持ちを傷つけることなく表明できるような人間になった状態だと思っています。

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣