不安の力(U)

― 森田正馬の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 前回は精神分析学を生み出したフロイトを取り上げました。今回は日本独自の精神療法森田療法を編み出した森田正馬を取り上げたいと思います。森田もフロイトと同様に若い頃パニック障害を有していました。自身のパニック障害を克服していく体験の中から、森田療法が生み出されていきます。世界を代表する精神療法家のフロイトと森田が、共にパニック障害であり、その障害を克服する中からそれぞれ精神分析療法、森田療法が生まれてきた事は大変興味深い事です。

 森田正馬は1874年(明治7年)1月18日、父正文22歳、母亀女26歳の長男として、高知県香美郡兎田に生まれました。父正文は、母亀女と結婚して、母の実家森田正直家の養子となった人です。実直な働き者で富家村の代用教員として生徒を教えるかたわら、農業に精出して森田家の田畑を守りました。農耕の経験はありませんでしたが、養子になってからは先祖からの田畑を守りました。

 森田は小さい頃よりよく日記を書きました。それは「我が家の記録」として残り、森田の精神的軌跡を辿ることができます。その記録によると、9歳から10歳の頃、村の寺であった真言宗金剛寺に張ってあった極彩色の地獄絵を見て、その恐ろしさにおののき、以来死の恐怖におののき、眠れぬ夜を過ごすこともしばしばであったといいます。そのようなこともあってか、小学校高学年まで夜尿があったといいます。

 14歳時、高知県立中学に入学し、寄宿舎生活をするが、動悸が何度も起こり、心臓病と思い込み、高知県立病院に2年間通院しています。学業も不振で、本来なら5年で卒業するところを7年かかって卒業しています。すでにこの頃よりパニック発作、パニック障害があったと思われます。その背景には、死の恐怖がありました。18歳の時、中学の友人と図り、両親には無断で上京し、上級学級を目指して苦学生活を始めました。両親の元では、高等学校等には進学させてもらえないと思っていました。しかし、東京での窮乏生活のため栄養失調から脚気にかかり歩行困難となりました。結局この独学の道は行き詰まり、高知に戻り復学しました。その後、中学4年の20歳の時、重症の腸チフスにかかります。その回復期に、自転車を乗り回した後、急な心悸亢進、パニック発作を起こし、今にも死にそうな恐怖体験をします。中学時代は死の恐怖が頭から離れず、奇術や奇跡など、あれやこれやの迷信に関心を寄せ、さらには呪詛、骨相、人相などについての知識を求めました。学業自体にはあまり身が入らず、死の恐怖を和らげるような哲学や宗教の本を手当たり次第に読んでいたといいます。それだけ、死の恐怖に恐れおののいていたか想像されます。

 明治28年21歳時に、土佐出身の医師大黒田龍の資金援助を得て、熊本の第5高等学校に入学します。高等学校時代は、パニック発作は起こらなかったが、頭痛、腰痛、肩こりに悩み、何度も医師を受診したり、転地療法や民間療法も試みているが、実効には乏しかった。心気的な面が大きかったと想像される。

 1898年(明治31年)第5高等学校を卒業後、東京帝国大学医科大学に入学します。しかし、高校時代はおさまっていたパニック発作が、大学入学後より再燃するようになりました。極度の不安のため、土佐から母親を呼び、大学の寄宿舎を出て、母親と一緒に下宿生活をするようになります。それでも、母のいる傍で何度かパニック発作を起こし、急患で近医に往診を依頼することがありました。1899年(明治32年)の春休みには、転地療養のため箱根に滞在しています。大学病院内科も受診し、入沢遠吉教授からは「神経衰弱兼脚気」という診断を受け、投薬されています。専門医からは、心気的な神経衰弱と看破されていました。その後パニック発作はおさまっていましたが、常習の頭痛に悩まされるなど心身の不調が著しく、大学2年時の定期試験に集中できない時期がありました。ひとまず休養して補欠試験で受験しようと弱気になっていたところ、友人に諭され必死な気持ちで受験しようと決心しました。その頃、約束していた郷里の父親からの仕送りが途絶えていて、父親に対する面当てに死んでもいいという気持ちになり、開き直って服薬もやめ、体を大事にすることをやめ、睡眠時間を削り、目前の目的である試験のための勉強に集中しました。体はどうにでもなれとどのような症状でも耐えると覚悟し勉強していますと、不思議なことにパ
ニック発作は生じてきませんでした。教科書やノートの内容がよく
頭に入るようになり、試験結果は119名中25番と、上位の中に入ることになりました。この結果は、本人のみならず周囲からも瞠目を浴びました。この「恐怖突入」体験と「ありのまま」に受け入れる姿勢の大切さを悟り、この心身の不思議な体験が、精神医学の道へ進ませる契機となり、森田療法を生み出す体験となりました。この体験の後、森田はパニック発作を起こさなくなり、パニック障害を克服することになりました。25歳のことです。

 森田自身が大学時代、神経衰弱症と診断されたように、当時の日本では、幅広い概念としてBeardの神経衰弱症が取り入れられていました。フロイトが、この神経衰弱症の中から不安神経症概念を分離したように、森田は神経衰弱症から神経質概念を分離していきました。森田は神経衰弱症の病態が、神経の消耗であるという考え方に疑念を持ち、精神作用の産物であると考えました。森田は、神経質を症状の違いから、普通神経質(神経質の狭義のものを指し、慢性神経衰弱症と呼ばれる身体的症状―便秘、胃症状、神経性下痢、眼科的愁訴、耳鼻科的愁訴などを呈するもの)、発作性神経質(心悸亢進発作、手足の脱力発作、めまい発作、逆上、卒倒感、悪感、震え発作などを呈するもの)、強迫観念症(強迫観念、恐怖症などからなる)の3型に分類しています。これは、現代の分類でも身体表現性障害、パニック障害、強迫性障害に対応し、普遍的妥当性を有する診断分類と考えられます。

森田の神経質分類

1.普通神経質
2.発作性神経質
3.強迫観念症

 森田は発作性神経質、すなわち現代においてはパニック障害の成因について、『神経質ノ本態及療法』(1928年)の中で次のように述べています。

 「例えば、ここに人が、偶然、脚気衝心患者の死の苦悶を目撃したとすれば、誰しも必ず大きな恐怖感動に打たれる事であらう。而して自分も斯んな事になることがありはしないかと、之が絶えず心配不安の種となって、自ら心悸昂進発作を起こすやうになる事がある。又或は其後、日常外界の事に追はれて、何時しか其事を忘れていたものが、夜中夢に驚くとか、心配事があるとか、偶然の機会に心臓の搏動を感ずると共に、忽ち之と前に脚気衝心患者の事とが観念連合を起こして、ここに初めて精神交互作用によりて、心悸昂進
発作を起こすやうになる事がある。これは昔から『感情は心臓にあり』といっておるやうに、凡て感動は、常に胸内に不快を感じ、心悸昂進を起こすことが、生理的の現象であるから斯く突然に心悸昂進を起こした時、本院が其前後の自己の精神的過程を意識すると否とを問はず、患者は忽ち恐怖に支配され、恐怖は当然心悸昂進を起こし、注意が其方に集注するほど、益々不安を感じ、此注意と不安とが交互に作用して、心悸昂進は、益々昂まり、其上、患者が、或
は自分で脈を検するとか、其他詳細に自己観察をするに従って、益々脈拍の数は増加し、前進に脈の拍動を感ずるやうになる。更に此発作がしばしば反復するに従ひ患者は日常其恐怖に支配され、注意は常に其方に牽制され、益々発作の頻度及び強さを憎悪するやうになるのである。」

 自己自身の体験でもあることから、非常に正確な症状、病態の把握となっており、成因分析になっています。

 日本人における発作性神経質の病因として「死の苦悶を目撃」し、「大きな恐怖感動に打たれ」、「自分も斯んな事になる事がありはしないかと、之が絶えず心配不安の種となって、自ら心悸昂進発作を起こすようになる事がある」と分析しています。これは現代のパニック障害患者の背景因子として、近親者の突然死に遭遇した後のパニック障害とよく類似しています。

 症状、病態、成因の把握がこれだけ正確であるだけに、治療法もその有効性は高いものになっています。またそれは、自己の「恐怖突入」「あるがままに受け入れ」たさいに得られた、症状消失の実体験が、「感動経験」として元にもなっています。一度の説得療法で治癒させた発作性神経質の例も報告されています。

 日本人の病態として把握しているだけに、その治療法も日本の豊かな洗練された精神文化に根着いたものとなっています。これは「複雑な理論的説得」ではなく、「以心伝心」による「必死必生」「背水の陣」「煩悶即解脱」と同等のものとし、体得によって得られるものとしています。きわめて日本的で、日本人の大切な精神性に根差した治療法となっています。

 森田療法は、御存知の通り、現在も行われています。実践的・東洋的な行動療法として世界からは注目されています。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.42 2005 AUTUMN