不安の力(V)

― 五木寛之の場合 Part1 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 横浜は国民的作家を生んで来た都市です。横浜は明治以降にできた新しい都市ですが、その明治時代に何人もの作家が生まれ育っています。大仏次郎、獅子文六、吉川英治、長谷川伸、白井喬二などです。大仏と吉川は、ある時期横浜市立南太田小学校という同じ小学校で学んでいました。大仏、獅子はハイカラな、吉川、長谷川は庶民的な国民作家であり、それは横浜の風土が持つ二面性でもあります。後に横浜に住んだ作家には山本周五郎や五木寛之がおり、横浜は国民的大衆作家が創作し易い風土と言う事もできます。

 今回はこの中から五木寛之を取り上げたいと思います。五木氏は現在も横浜・白楽のマンションに住んでいます。私は以前勤めていました芹香病院の同僚に招かれて、その人の自宅を訪ねた際、「隣が五木寛之さんの家です」と言われ、折角なのでベランダから隣家を少し覗いてみました。電気が点いていて人の気配がしましたので、五木氏が在宅していたのかも知れません。それ以上は失礼と思い部屋に戻りました。

 五木氏はずっと関心を持って読んできた作家です。五木寛之氏(以下敬称略)は自ら「不安の力」と言う本を書いています。その中で、幼い頃から現在までずっと不安を持ち続け、時々うつ状態やパニック発作をおこしたことが述べられています。しかしその不安が、生活や創作の力になってきた事も述べています。その過程を追い、五木氏の「不安の力」について考えてみたいと思います。

 五木氏は昭和7年(1932年)9月30日父松延信蔵、母カシエの長男として福岡県八女市に生まれます。両親共に小学校の教員でした。寛之の生後間もなく両親は新天地を求めて朝鮮半島に渡り、各地を転々とします。昭和20年(13歳)平壌で敗戦を迎えます。父親は忽ち虚脱状態に陥り、9月にはソ連軍が進駐してきて、母親はソ連兵に暴行され死亡しました。それから2年間虚脱状態の父親と幼い弟妹を連れて朝鮮半島内を転々とします。生死の中を彷徨い、シベリア収容所へ送られる恐怖と闘いながら、昭和22年(15歳)春引き揚げ船に乗る事ができ、やっとの重いで博多に着く事ができました。ここでの体験はPTSDといった病名で付けられるような次元のものでなく、不安・恐怖の極限状況的体験でした。

 五木氏のように昭和一桁生まれの人は、思春期な敗戦を迎え、それまで信奉していた絶対的な天皇制から、180度転換した民主主義にその日をもって切り替えられ、実存的危機に置かれたと思われます。その大きな喪失体験と、真の生き方を摸索するようになり、作家になっていった人が多いように思います。かつてその視点から芥川賞作家と直木賞作家を昭和一桁の年代を中心にグラフ化したことがあります。推測したように、昭和一桁世代が最も多く作家を輩出していました(表1、表2)。敗戦を何歳で迎えたかと言う事は、その後の人生に大きな影響、影を落としています。三島由紀夫が昭和元年に生まれているのは象徴的です。彼の中で敗戦は受け入れ難いものが在ったのではないでしょうか。それが昭和45年の自衛隊市谷駐屯地内での時代錯誤的なクーデターの呼掛けと自決事件に現れたように思います。昭和5年には開高健らが生まれ、本能的生き方をします。昭和10年には大江健三郎が生まれ、戦後民主主義の旗手となります。(次号につづく)

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.43 2006 WINTER