不安の力(X)

― J.K.ローリングの場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 現在、世界で最も読まれている本「ハリー・ポッター」の著者J.K.ローリング(ジョアン.K.ローリング)には社会不安障害があった。社会不安障害のためひきこもりがちの生活となり、生活保護を受けながらの生活になってしまう。しかしひきこもったために、空想し続けることが可能となり、ある時一気に泉が溢れ出るように、それまでの人生経験と空想が混ざり合って「ハリー・ポッター」の物語が勝手に紡ぎ出てきて、著者は唯それを書きとめただけという。優れたファンタジーの創造はこのようにして生まれる事が多い。「モモ」の著者ミヒャエル・エンデも同様の事を語っていた。心の底、魂の次元から生まれてくるようだ。だからその物語は人の目には見えない魂の具現化でもある。善悪といった現世的な価値観に囚われることなく、生命のエネルギーのまま自由に動き回る事が出来る。それは魂の世界として真実であるために、人々の誰もが持つ魂に呼応する。読者はあっという間にそのファンタジーの世界に入り込み熱狂する。普段は眠っている魂が揺り動かされ、人々に強い感動を与える。現在第6巻が発行されているが世界的な大ベストセラーになっている。発売前日から多くの人々が1分でも早く読みたいがために徹夜で行列をなしている。それ程に魅力的な小説である。それを生み出した原動力が社会不安障害であった。

 1965年7月31日、イギリス南西部の町イエートのコテージ・ホスピタルで、ピートとアン・ローリングの長女として彼女は生まれた。両親は共にまだ20歳で、4ヶ月前に結婚したばかりだった。授かった名前はジョアン。母親、そして妹同様ミドルネームは無い。ピート・ローリングとアン・ヴォラントが出会ったのは1964年、ともに18歳で、軍に勤務していた時の事だった。ピートはイギリス海軍に入隊したばかりで、アンも海軍婦人部隊に所属していた。10代の二人が出会ったのは、ロンドンのキングス・クロス駅を出発する列車の中で、ともにスコットランドのアーブロースにある配属先の第45部隊に向かうところだった。駅で意気投合した二人はそのまま付き合い、除隊後20歳で結婚し、すぐにジョアンが生まれた。二人はイングランド西部のイエートという田舎町の質素な家に住み、ピートは生産工見習いとして働き出し、アンは専業主婦となった。1年後妹ダイアンが生まれた。ジョアンとダイアンはともに母親のアンの名前をもらい、歳も近かったせいで双子のように見える時もあったという。母親のアンは読書家で家には本が溢れ、娘達によく読み聞かせたという。父親のピートも時々読み聞かせ、ジョアンがはしかで寝込んだ時読んでくれたケネス・グレアムの「たのしい川べ」が最初に記憶に残った本という。このイギリス児童文学の名作は動物好きのジョアンの心に深く残り、擬人化された動物がジョアンの心の中に住み着くなり、後に「ハリー・ポッター」の中にも登場してくるようになる。近所の子供達とよく魔法使いごっこをして遊んだ。古着のコートをはおって箒にまたがって庭で走り回った。ジョアンが呪文を唱え、子供達が登場する話を作ってはみんなを喜ばせたという。思いつく限り気味の悪い物が入ったジョアン特製の魔女のビールは特にみんなのお気に入りだった。こうした隣近所でののびのびと無邪気に過ごした幼い日々の遊びが、その後のジョアンの「ハリー・ポッター」の世界に繋がる想像力を育んでいった。その後、聖ミカエル英国教会の附属幼児学校、小学校に入学する。1970年秋家族はタッツヒルという古い町のチャーチ・コテージ(旧校舎を改造した古い大きな住宅)に引っ越した。それに伴いジョアンもタッツヒル英国教会附属小学校に転校した。この新しい小学校は、それまでののびのびとした気風のイエートの小学校とは全く雰囲気が違い、チャールズ・ディケンズの小説世界に出てくるような大変規律の厳しい学校であった。先生も厳しく、この急な環境の激変が感性豊かなジョアンに対人緊張・恐怖感、社会不安障害の最初を生じさせる事になった。この怖い先生達はその後「ハリー・ポッター」ホグワーツ魔法学校にも登場してくる事になる。

 タッツヒル小学校を卒業し、近くのセドベリーのワイディーン・コンプリヘンシブ・セカンダリー・スクール中等学校に進学する。この中等学校は日本の中学・高校に当たり7年間である。「ハリー・ポッター」のホグワーツ魔法学校の世界はこの7年間が7巻として描かれている。ハリーと同じくジョアンも11歳でワイディーンに入学し、17歳で卒業した。誕生日が同じ7月31日なので、ハリーもやはり17歳でホグワーツを卒業する事になる。14歳の時J.R.R.トールキンの名作『指輪物語』三部作を読み大変な感動と啓示を受ける。以後この三部作はいつも傍に置き何度も読み返し続けたという。中等学校時代ずっと社会不安障害は続いた。クラスの前でスピーチしようとした時、緊張し、吐いてしまったらどうしようと思っていたら急に気持ちが悪くなり皆の前で吐いてしまった。皆に笑われ、大失態を演じてしまった恥ずかしさからそのまま家に逃げ帰り、暫く不登校になったという。このトラウマがジョアンの社会不安障害を更に強めた。その頃母親アンが多発性硬化症にかかり衰弱していった事はジョアンの気分を更に不安定にした。ジョアンは煙草を吸うようになり、体制批判の音楽にのめりこみ、過激な服装やメイクに凝り、何とか不安を紛らし学校を卒業した。卒業後第2志望のエクセター大学に入学するが、第2志望ということがあったためか、勉強には身が入らなかった。大学では教員資格を取得し卒業した。

 就職するも社会不安障害のためか、一ヶ所の仕事が長続きできずにいた。そんな時ポルトガルのオポルトにあるエンカウンター・エンカウンターイングリッシュ・スクールの英語教師として採用され、ポルトガルに渡る。仕事をしながらも、毎晩地元のナイトクラブに通い詰めた。そこでジャーナリスト志望の学生ジョルジ・アランテスと出会い、恋に落ち、同棲し結婚する。一人娘が生まれるが、直ぐに離婚してしまう。妹のいるスコットランドに戻るも、その後就職できなくなり、一人娘と一緒に生活保護によってひきこもり的な生活に入っていく。一時うつ状態になり数ヶ月間治療を受ける。この時の体験はシリーズ第三巻『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の中に良く描かれている。喜びや楽しい想い出を全て吸い取って相手を絶望の淵に追いやる(これが正にうつ状態)恐ろしい生き物ディメンター(吸魂鬼)が登場し、ハリーをうつ状態にしてしまう。ハリーを気遣う先生たちのあれやこれやの処置はうつ病に対する様々な療法に類似していて大変興味深い。おそらく自分自身の辛い体験に基づいて描かれたと思われる。落着いた日々の中では、幼い娘に両親がしてくれたように物語を話し聞かせていた。そのような日々の中、ある時突然、以前より構想は練っていたが、泉が湧くように「ハリ!ポッター」物語が生まれてきた。ジョアンは唯それを書きとめ「ハリーポッター」物語が出来上がったという。「ハリー・ポッター」物語の創造は社会不安障害に依る所が大であった。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.45 2006 SUMMER