不安の力(Z)

倉田百三の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 旧制高校という時代があった。青年が学問を意識しながら自由を謳歌した時代である。教授も学生も細かいことは言わない。授業に出るとか、出席を取るとかそんな野暮なことは言わない。教授も学生もまず人生の真理を考え哲学的な読書を重んじた。夜は高下駄を履き破衣、破帽で町内を闊歩し、よく酒を飲み、議論し、寮歌を歌った。バンカラと言われた。町の人は、そのような若者たちを好意とある種の敬意をもって厚遇した。実際大物が育った。一高は現在の東京大学教養部であり、二高は東北大学教養部であり、三高は京都大学教養部であり、四高は金沢大学教養部であり、五高は熊本大学教養部である。ナンバースクールと呼ばれた。今でも大きな業績を成し遂げた老人達が、旧制高校時代を懐かしみ、当時の格好のままで集まり寮歌祭を開き、肩を組んで大声で寮歌を歌っている。細々した勉強はしなかったが、世界的な学問業績が上がった。このシリーズの第2回に登場してもらった森田正馬は第五高等学校卒である。森田はこの五高であの夏目漱石に英語を習っている。教授も素晴らしかった。その伝統が多少なり残っているのが京都大学である。学問の自由が残り、独創的な研究が生まれている。最も優れた臨床精神病理学者の中井久夫氏は当初京都大学のウイルス研究所で研究していたウイルス学者であった。そんな自由が京都大学にはある。

 その旧制高校に入学した学生は必ず読むべき本として伝えられた3冊の本があった。三種の神器とも呼ばれた。その三冊とは西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の『出家とその弟子』であった。人間として生きていくべき基本的倫理観、実存哲学、死生観を実感を持って学ぶ事のできる大変優れた日本的名著である。しかしこのような優れた名著が生まれる背景に強い不安・うつの体験があった。今回は「出家とその弟子」の著者倉田百三を取り上げる。

 父倉田吾作は、広島県比婆郡庄原村で呉服商を営み、この家業で財を成した。百三は明治24(1891)年2月にそこで誕生している。姉4人、妹2人の女ばかりの家族の中で百三はたった一人の男の子として寵愛と期待を一身に受けて育った。広島県立三次中学に入学、母方の叔母シズが嫁していた三次町(実はこの三次町で昨年11月に講演をしてきた)の宗藤嚢次郎家に寄寓、ここから通学した。宗藤家には実妹の重子も養女となって住んでいた。宗藤家は浄土真宗の熱心な信徒であり、この地方の真宗在家集団の有力者でもあった。百三はシズの強い影響を受けて『歎異抄』を繰り返し読み、これに惹かれていった。『歎異抄』は、大正6(1917)年に刊行された『出家とその弟子』の素材である。内容は人生の寂しさ、師との邂逅、信仰、煩悩、救済、恋の苦しみなどを激しい感情を内に潜ませながら、清明な論理をもって描いたドラマである。本の扉には、「この戯曲をわが叔母上にささげる」と明記されている。この本によって百三の名声は一気に上がった。

 百三は家業を自分に継がせたいという父の願いを退け、明治44年、19歳の時に第一高等学校に入学、故郷を去った。しかし大正2(1913)年22歳時に結核に罹患し折角の一高も退学し、闘病生活を送るようになる。その後家業は倒産し、姉2人と母親が病死するという不幸を体験する。大正15(1926)年やっと結核から回復し神奈川県藤沢市に転居、落着いた日々を送るようになる。しかしここから本格的な不安(強迫性)障害が起きるようになる。この頃自然を観照する事を実践していたが、観照しようとすると事物は淡々として感動を与えなくなった。更に全体を把握しようとすると細部にしか注意が行かなくなった。部分しか見えなくなった。八百屋の前を通りかかると、知覚できるのは野菜や果物だけである。店全体がどんなものかがわからない。街には人や馬や、車が行き交っているがその全てが統覚できない。時にあるがまま、無為自然体でいる時に全体が把握できる事に気付くがそれは束の間であった。どうしても意識的執着となってしまう。更にその部分が回転するようになった。めまいがして嘔吐し倒れた。事物を見ることに強い恐怖を感じるようになった。この恐怖の観念に怯えている最中に、瞼を閉じている時も眼は瞼の裏を見ているという観念に囚われるようになった。眼は見続けているので、休む事は無く、眠る事はできないと思うようになった。不眠が続き、衰弱死していくに違いないという強い恐怖観念に囚われるようになった。

 自力で治すのは困難と悟り、何かこの異常を治す他力は無いかと藁をもすがる思いで、東京神田の本屋街を探し回った。一冊の本に巡り合った。京都済生病院院長の小林参三郎が著した『静坐』という本であった。必死な気持ちで一気に読み通した。強迫観念は意志の力によってこれを治すことはできないが、静坐を続けるならば自分の力ではない自然の力が作用して治癒に至ると説かれていた。腑に落ちる気がした。取る物も取りあえず京都の小林病院長を訪ねた。必死だった。小林の治療法は森田療法であった。絶対臥褥を続け、あるがままの心境を体得する方法(不安の力(1)に記載)である。小林の治療によって熟眠できるようになるが、別の強迫観念に囚われるようになった。耳鳴りに気付いたのである。耳鳴りを意識し出したらその音はどんどん大きく感じられ、頭にガンガンと響いて来た。耳鳴りだけに囚われるようになってしまった。苦痛に絶叫した。際限の無い連鎖恐怖がその後も続いた。

 父親を看取った後、百三は昭和2(1927)年2月20日森田正馬に直接治療を受けるべく、森田診療所を訪ねた。当時、森田は慈恵会医学専門学校の精神科教授であったが、同時に本郷区蓬莱町で診療所を開き日曜日のみ診療を行っていた。森田が百三に伝えたのは、次にここを訪れるまでの日常生活を、主観の一切を排して事実のままにしたためた日記にして、持参するようにということだけであった。正馬は、宅診の度にその日記を見て、簡単なコメントを伝えるのみであった。森田療法の真髄は、症者の苦悩は苦悩のままに、激しい苦悩を引きずりながらも、日常の生活は全うさせるというものであった。作家である百三には恐怖はそのまま受け留めながらも、作家として作品を書き続けるように言いつけた。

 森田は百三の強迫観念について明晰な解釈を施している。「百三は観照の美学などと称しているが、これは観照する対象の美そのものを感得する心ではなく、観照に対する努力の快感にほかならない。」対象を眺めてそこに美を感得しているのではなく、美を快と混同して自分の快適な気分に陶酔し、耽溺しているのであるから、ふとしたきっかけでこの気分は容易に反転する。百三はこの反転に焦り、もがき執着してはからい、強迫観念に至っているという理解である。しかしこの理解は直接百三には伝えず、苦悩を背負ったまま作家としての本分を全うせよというのみであった。このとき出来上がった小説が畢竟の秀作『冬鶯』であった。百三と彼の妹艶子は、京都の一燈園(この学校は今もあり、本来的な心身の修養教育を行っている)での求道の生活を志し、二人でそこに通うために京都でつましい生活をしていたことがある。『冬鶯』は、このときの生活を回想して書き上げた小説である。百三が主人公の頼介であり、ゆき子が艶子である。百三と親交のあった青年湯川がもう一人の登場人物である。人生の不安についての三人の真摯な語り合いが読む者の胸を打つ。求道を志して終生独身を守る事を兄に誓ったゆき子であったが、湯川との恋に落ち、頼介から次第に遠ざかっていく。頼介の寂蓼感と、しかしそれはそれでいいのだと自らに言い聞かせて揺れる心を、冬鶯の声を背景にしながら静かに語っている。

 この作品を完成させると同時に、不安・恐怖はこの小説の中に昇華されるように霧散していった。『冬鶯』は「不安の力」によって創出された小説であった。これ以降以前にまして強健な百三が出現するようになった。不安を真に克服した後の健康さ強さであった。森田は本来、不安・恐怖は「生の欲望」が反転して生じているものであるとする。不安・恐怖が解放されれば、強い生が生じるのは当然の事としている。

(参考文献:渡辺利夫著『神経症の時代−わが内なる森田正馬』TBSブリタニカ:1996)

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.47 2007 WINTER