不安・うつの力(\)

― 精神科医 神谷美恵子氏の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 神谷美恵子さんは大変敬愛されている精神科医です。大井玄先生の「病と詩」の第一回にも神谷さんの29歳における詩『らいの人へ』が紹介されていました。

 神谷美恵子さんは1914年(大正3年)1月12日、内務官僚前田多門・房子の第2子として父親の赴任先岡山で生まれました。当時父前田多門は岡山県の視学官をしていました。4歳時、一時横浜に住んでいた事があります。19歳時に叔父で牧師の金沢常雄に連れられ、初めてらい病療養所多摩全生園を訪ねます。全生園内にある教会で叔父が説話する際のオルガン伴奏のためでした。初めてらいの患者さんを見て大変な衝撃を受けました。当時「らい」は伝染性の不治の病とされ、また全身の神経・皮膚を侵し顔面や全身の皮膚が醜く爛れ見るものを恐怖に陥れました。そのため大変忌み嫌われ、発症すると「らい予防法」によって、一生涯療養所に隔離収容されました、家族も世間に知られる事を怖れ、戸籍からも末消してしまいました。「らい予防法」はつい最近まで存続し、患者たちは社会からの強い偏見と差別の中に置かれ続けました。飼い殺しの状態に置かれ、死ぬまで療養所内に隔離され続けました。生きる目的、生きがいを奪われ、自殺者も多数出たといいます。「こんな病気があるものか。なぜ私達でなく、あなた方が。あなた方は身代わりになってくれたのだ。」と心の中で叫びました。「らいという病気について何も知らなかった者にとって、患者さんたちの姿は大きなショックであった。自分と同じ世に生を受けてこのような病におそわれなくてはならない人びとがあるとは。これはどういうことなのか、どういうことなのか。弾いている賛美歌の音も、叔父が語った聖書の話も、患者さんたちが述べた感話も、なにもかも心の耳には達しないほど深いところで、私の存在がゆさぶられたようであった。」(「らいと私」)そしてこの人たちのためにどうしても看護婦か医者になりたいと思うようになりました。このことを両親に話しましたが、当然の事ながら両親は猛反対しました。

 21歳の時肺結核を発病してしまいます。当時肺結核は死の病でした。この時強いうつ状態になり、数ヶ月寝たきりの状態になります。苦しい絶望の極地に置かれていた時、ある日自分の斜め上から神々しい光を浴びるという神秘体験をします。心の底から激しい悦びが沸き起こり、何かによって生かされていることを体感します。このような神秘体験をした人は前回の柳澤桂子さんがそうでしたように、詩人に成り易いです。魂が強く揺り動かされるためと思います。そのような詩人の詩は、人の魂に響き、感動させ、その人を動かします。うつ状態から回復し、今度はエネルギッシュに英語の勉強に取り組んだりします。生まれ変わった感じで「二度生きる」と、この時の感覚を表現しています。

 25歳の時、父親とニューヨークで開催されていた万国博覧会を見学に行きます。その際、「公衆衛生医学」館の展示に釘付けになる美恵子さんの姿を見て、父親は医師になりたい思いを悟り、医学部の進学を許します。当時女性が医学を学べる所は東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)しかなく、27歳時に入学します。しかし「らい」をやる事は許されませんでした。家庭教師をしていたお嬢さんが統合失調症を発症し、そのお嬢さんの生き辛さを見るにつけて、精神科医になる決心をします。自分自身が「うつ病」を経験した事も大きかったと思います。30歳時医専を卒業し、東京大学精神医学教室に入局し、精神科医となります。

 32歳時、東京大学理学部植物学科講師の神谷宣郎と結婚し、神谷美恵子となります。二人の男児が生まれ、暫くは子育てに専念します。41歳時子宮ガンが発見され、再び死を覚悟します。その時、「やりたいことをやらずに死ぬ」無念の涙を流したと言います。しかしラジウム照射が奏効し治癒します。その思いを悟った夫宣郎から「らいをやったらいいじゃないか」と言われ、夫に感謝し人生の最大の目標だった「らい」の患者のための援助の仕事を始める事にしました。当時芦屋に住んでいましたが、昭和32年(43歳時)岡山県の離島にあるらい療養所「長島愛生園」の精神科非常勤医師となり、以来、昭和47年(58歳時)まで、15年間に渡ってらい病患者の精神的ケアにかかわるようになります。これは一種の Spiritual Care (スピリチュアルケア)でした。最も生きがいのもてない患者たちにどのようにして生きがいをもってもらうかという臨床研究から「生きがいについて」(昭和41年52歳時)という畢竟の名著が生まれました。美智子皇后が精神的に悩まれていた際には、話し相手になられ、さりげなく支えられたといいます。これも一種の Spiritual Care だったのでしょう。神谷さんは「頭の先から爪先まで優しさの詰まった方だった」と言います。溢れる慈愛によって苦しんでいる人を癒す事のできた聖女のような精神科医でした。

 この後湧き上がる強い思いから次々に著作が生まれ「神谷美恵子全集」が刊行されるまでになります。夫には「自分の中に鬼がいて、その鬼が言わせる」と話しています。鬼が言うとは将に「魂」から発する言葉と言う事です。1971年(57歳時)初めて狭心症発作を起こします。以後、狭心症発作、TIAなどのために17回入退院を繰り返します。しかしそのような生命危機を与えるような病気に対しても怯む事無く、著述活動を続けます。昭和54年10月22日心臓発作を起こし、岡崎市立病院で亡くなります。享年65歳でした。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.49 2007 SUMMER