32歳時、東京大学理学部植物学科講師の神谷宣郎と結婚し、神谷美恵子となります。二人の男児が生まれ、暫くは子育てに専念します。41歳時子宮ガンが発見され、再び死を覚悟します。その時、「やりたいことをやらずに死ぬ」無念の涙を流したと言います。しかしラジウム照射が奏効し治癒します。その思いを悟った夫宣郎から「らいをやったらいいじゃないか」と言われ、夫に感謝し人生の最大の目標だった「らい」の患者のための援助の仕事を始める事にしました。当時芦屋に住んでいましたが、昭和32年(43歳時)岡山県の離島にあるらい療養所「長島愛生園」の精神科非常勤医師となり、以来、昭和47年(58歳時)まで、15年間に渡ってらい病患者の精神的ケアにかかわるようになります。これは一種の
Spiritual Care (スピリチュアルケア)でした。最も生きがいのもてない患者たちにどのようにして生きがいをもってもらうかという臨床研究から「生きがいについて」(昭和41年52歳時)という畢竟の名著が生まれました。美智子皇后が精神的に悩まれていた際には、話し相手になられ、さりげなく支えられたといいます。これも一種の
Spiritual Care
だったのでしょう。神谷さんは「頭の先から爪先まで優しさの詰まった方だった」と言います。溢れる慈愛によって苦しんでいる人を癒す事のできた聖女のような精神科医でした。