二人称の死とは家族など親しい者の死である。「二人称の死」という言葉は古くから、宗教学、哲学に登場していたが日本で広く認知されるようになったのは、ノンフィクション作家柳田邦男が次男の自死を看取った記録『犠牲 わが息子・脳死の11日』以来である。柳田はこの著書の中で二人称の死を次のように規定している。「『二人称(あなた)の死』は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親あるいは、恋人が死にゆくとき、どのように対応するかという、辛くきびしい試練に直面することになる。」柳田自身、次男の脳死を看取って「脳死」「臓器移植」等の現代医療、生命倫理問題に対して様々な提言をしていくようになる。二人称の死を体験した人は大きな悲しみの中に陥る。暫くは誰もがうつ状態の中にある。フロイトは喪失体験から立ち直る時、何らかのモーニングワーク(喪の作業)が行われると論考している。悲しみを、例えば言語化する事によって、「悲しみ」を身体から切り離し「思い出」化していくような作業である。芸術家であればそれが優れた芸術作品にもなる。人生が変わっていく場合もある。深い悲しみから人生の深淵を知り、人生の無常を悟り、詩人、求道者、哲学者、宗教家になっていく人もいる。道元は八歳の時に母を亡くし、世の無常を感じ十四歳で出家し、偉大な導師となる。ダンテやゲーテの文学も二人称の死から生まれた。 ケ セラ セラ<こころの季刊誌> |