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不安・うつの力(]V)
― エイブラハム・リンカーンの場合 ―
医療法人 和楽会 横浜クリニック院長
山田 和夫
T.歴史を動かす心の病
アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンは黒人奴隷解放などに力を尽くしたが、何度かうつ病を経験した。うつ病によってリンカーンは休息した。そして、その後の湧き上がるエネルギーで多くの歴史的活動を行なった(双極性障害)。双極性障害は歴史を動かした心の病であった。「心の病」は時にして歴史を動かす。平凡な力では歴史は動かない。「心の病」は尋常でない力をその人物に与え、その結果歴史を動かす事がよくある。
U.戦争指導者の心の病
戦争によって歴史が進展する場合がよくある。関が原の戦い、南北戦争、第二次世界大戦などはその典型例である。戦争指導者には心の病がよくある。カリスマ性というのもとても危うい心の側面である。クレッチマーは『天才の心理学』1)の中で「精神病質者というのは常に存在する。ただ平和の時には、われわれ精神科医は彼らを鑑定し、疾風怒濤の時代には、彼らがわれわれを支配する。」と述べている。これは大変適確な指摘である。
第二次世界大戦がその通りである。戦争を引き起こしたのは日独伊の三国同盟である。同盟国は国際協調の中で歪んだ発展をしようとした全体主義・ファシズムの国々である。ドイツの戦争指導者はヒットラー,イタリアはムッソリーニ、日本は東条英機であった。ヒットラーは複合的人格障害,東条英機には強迫的神経質症があったという。とても戦争に勝てる心の病ではない。日本は大東亜共栄圏の美名の下に、朝鮮、中国更にはアジアを支配しようとしていった。ドイツは、民族浄化の美名の下にユダヤ人や精神障害者を虐殺していった。そのような不正義は歴史的に結局滅びて行った。しかし、一時そのような不正義がその国民にとっては、熱狂的な歓声を持って受け入れてられていた。戦争指導者の個人的狂気と、それを受け入れる民衆の集団狂気である。人間とは、誰も危うい存在でもある。
それに対してイギリスの戦争指導者はチャーチル,アメリカはアイゼンハワー、フランスはドゴール,ソ連はスターリンであった。チャーチルは双極性障害があったことが知られ、アイゼンハワーは明るい循環気質であった。共に危機戦時下の緊張状態の中で軽躁状態を呈し,強い意志と勇気と勝利への自信が連合軍全体を鼓舞し、強い戦闘力を発揮しノルマンジィ―上陸作戦を敢行し、勝利へと導いた。双極性障害の心性は、健全な自由社会を希求し,現実見当識が高く,正義,勇気、自信を有し、勝利に導き易く、歴史を健全な方向へ進展し易い。双極性障害は正に一つの歴史を動かす心の病である。
V.リンカーンの人生と双極性障害
エイブラハム・リンカーンはアメリカを代表する大統領であり、アメリカ合衆国をまとめ上げた大統領である。「人民の、人民による、人民のための政治」即ち民主主義を確立し、南北戦争に勝利する事で黒人奴隷解放を実施し、アメリカ合衆国を統一していった。信仰心が厚く、人道主義者で、誠実で温か味があり、強い意志を持ち、大きな人望を有していた。性格的には大変良心的な執着気質者である。そのために双極性障害に近い反復性うつ病にもなった。そのために大統領になった。うつ病は時に彼に休息を与え、人間の苦悩を実感させ,人間性に深みを与えた。彼の写真は真摯さと同時に悲しみを湛えている。
リンカーンは1809年2月12日アメリカ合衆国ケンタッキー州の奥深い森の丸太小屋の中で生まれている。父親のトマス・リンカーンと母親のナンシー・ハンクスは二人とも下層の出身で、貧しい開拓民であった。開墾と狩猟で生計を立てていた。母親は彼が9歳の時にリンゴ病で亡くなっている。翌年にはサラ・ブッシュ・ジョンソンが継母として来る。教育はアンドリュー・クロフォードが教える学校に1年間のみ通っている。しかしその1年で基本的な読み書き計算とアメリカの「独立宣言」を習っている。また詩作や演説法を習っている。後は自学自習である。教育とは基本的に何を教えるべきか,ここに端的に明示されている。1831年(22歳)家族と別れ自立し,イリノイ州のニューセーラムで働くようになる。1832年(23歳)友人等に推されてイリノイ州の議員選挙に立候補するも落選する。同年「黒たか戦争」に参戦する。1834年(25歳)ホイッグ党からイリノイ州議員立候補し当選する。1836年(27歳)弁護士試験に合格する。1837年(28歳)スプリングフィールドに移り,友人スチュアートと法律事務所を開く。ここまでは社会的には艱難辛苦はあったものの,社会的成功者としての道を歩んできた。
彼が初めてのうつ状態を呈したのは,1841年(32歳)、名家の令嬢メアリー・トッドとの縁談話が持ち上がって来た時である。彼は弁護士としても政治家としても成功し,将に名士とならんとしてきた状況の中で、名家の令嬢を妻に迎える事は相応しい事のように見えた。しかし彼には名家の令嬢が重荷であった。メアリーは何不自由ない豊かな生活の中で育ち、教養も身につけ,社交的であった。リンカーンは貧困の中で育ち、弁護士になるまでは社会の底辺から苦労と努力で自力で成功を収めて来た。実力はあったが,育ちの良さや教養は無かった。
そのため全く非社交的であった。しかしこの縁談を断る理由が無かった。徐々に深いうつ状態となり,衰弱し希死念慮も生じるようになった。生きる意味を感じなくなり,絶望の淵に追いやられたという。その病状を見て親友のスピードが大変驚き,心配して,彼を自分の故郷のケンタッキーに連れてゆき、十分に静養させた。徐々に健康を取り戻し,話もできるようになった。やっと回復した時スピードに向かって次のような事を話した。「僕には,死んで行く事は少しも怖くない。いや,今自然に死んでゆけるのだったら,どんなに嬉しいか,とまで思っている。だが,僕はこうして人間に生まれてきたんだから,やはり,何か生きがいが感じられるまで生きている義務はあるうと思う。」うつ病から回復していく過程で,死をも恐れない社会的使命感を感じていくようになる。そこには躁的心性も加わっているように見える。その後もうつ状態は再発し、苦しむもリンカーン自身が耐えて凌ぎ、静養するまでには至らなかった。彼の強い精神力によるものと思われる。
W.大統領就任と奴隷解放と南北戦争
1842年(33歳)メアリー・トッドと結婚し,翌年には長男ロバート・トッドが生まれる。1846年(37歳)イリノイ州の下院議員に当選し、次男エドワード・べーカーが生まれる。1847年(38歳)ワシントンに移る。上院議員に立候補するが落選する。この頃,アメリカ海軍がペリー提督の下、浦賀に着き日本を威嚇して開国を迫った(1853年)。1854年アメリカ共和党が結成され,民主党と共和党の2大政党制になる。1860年(51歳)共和党の大統領候補となり当選する。1861年(52歳)3月4日アメリカ合衆国第16代大統領に就任する。しかしリンカーンが奴隷解放論者であったことを嫌い、南部諸州は合衆国から脱退し南部同盟を結成する。リンカーンはこれを認めなかったため南北戦争が勃発する。戦争の最中1862年(53歳)9月22日東部諸州に奴隷解放令を出す。
1863年(54歳)11月19日ゲティスバーグの戦跡で,歴史的な「人民の,人民による,人民のための政府」と演説する。
1864年(55歳)大統領に再選され、1865年(56歳)3月再び大統領に就任。4月9日に南北戦争が北部勝利の形で終結するも、4月14日,劇場で狂信的な俳優ジョン・ウイルクス・ブースによって狙撃され,4月15日死去する。大統領に再選された就任式の際次のような演説を行っている。
「この南北戦争は,誰もがしたくなかったのに起こりました。奴隷制度がその原因です。戦争が始まった時,南部も北部も戦争がこれほど長引き,これほど激しいものになるとは考えてもみませんでした。南部も北部も正しいのは自分達であって,神様も自分だけの味方であると思っていたのです。しかし今となってみると、神様は南部にも,また北部にも味方はしていなかったのです。この戦争は,奴隷制度を持っていたアメリカに対して,神様が与えた天罰であり,恐ろしい試練であります。私達にできる事は,この天罰が少しでも早く終わるように祈る事だけです。この戦争では,誰も悪いのではありません。ですから,どんな人にも悪意を抱かず,どんな人にも慈愛の気持ちを持ち,神様が私達に教えている正義を固く守りましょう。この戦争で傷ついたすべての人を労わりましょう。全ての人の平和のために努力しましょう。」
X.歴史における双極性障害の意義
リンカーンは, 再任された大統領就任演説にあるように、人物が大きく、敵を憎まず寛大で人間愛に満ちていた。そのため敵からも信頼された面がある。また死を恐れず,正義のために戦う勇気を有していた。双極性障害の良い心性と言える。双極性障害によって南北戦争は勝利し、奴隷解放令が実施され,アメリカ合衆国が分裂せずに統合していった。そしてアメリカ合衆国はその後,民主主義の模範を歴史上に提示し,20世紀を牽引していく事になった。双極性障害によって歴史は正しい方向に大きく動いた2)。
文献
1)E.クレッチマー(内村祐之訳)「天才の心理学」p37,岩波書店,1982
220,講談社,1981
2)山田和夫:精神医学からみた戦争―人類最大の狂気、戦争について―。文化とこころ1:280-284,1997
ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.53 2008 SUMMER
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