不安・うつの力(]])

― 作家 曽野綾子・三浦朱門夫妻の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 作家曽野綾子氏(78歳)の夫三浦朱門氏(作家、日本芸術院院長、84歳)が曽野綾子氏のうつ病を中心に「うつを文学的に解きほぐす」(青萌堂、2008)という本を書いています。その本には、細かい記述はありませんが、三浦朱門氏の回りには多く不安・うつの人がいたらしく、断片的に様々な人の不安・うつの記述がなされています(以下敬称略)。

 「そもそも私の生活にウツという言葉がはいってきたのは北杜夫からだった。彼は『今は躁だ、今は欝だ』といった言葉で、私たちの間で片仮名のソウとかウツとかいう言葉を日常的な単語にしてしまった。北杜夫は優れた文学者であるが、同時に精神科を専攻とする医師でもある」(P13)

 「遠藤周作が元気なころ、精神科の医師でもある北杜夫に、同業者におかしいのが多いという話をしていて、遠藤が名前を上げると北杜夫が片端から病名をつける。最後に遠藤が私の名前をあげた。『三浦朱門はどうだ。あいつはオカシイところはないだろう』すると北杜夫はしばらく考えたあげく答えた。『あれだけバランスがとれているのはやはり正常とは言えませんな。やはりおかしい』つまり北と遠藤が一致して認めたことは、私は業界で一番、キレにくい人間だということだろう。

 しかし言い訳か反論か分からないが、自分の気持ちを言わせてもらうと、私は決してそれほどバランスのとれた精神の持ち主ではない。私なりに一生懸命に努力してきて、事に当たってキレないようにつとめてきた。いや、それは忍耐と努力の結果、というよりも、今日までキレずにすんできたのは、私が才薄い文士ということでもある。」(P145)


 精神科医・作家北杜夫の観察は鋭い。三浦朱門の「バランスがとれている異常」は、実は三浦には確認癖、強迫観念即ち強迫性障害があり外面上バランスが取れているように見えていたのです。三浦は書いています。

 「私は幼いころは発達未成熟なところがあった。母親の過保護もあって、小学校に入る時になっても、自分で服のボタンをはめられなかったし、靴もはけなかった。東京郊外の農村地帯で幼年期を送り、父は東京で編集者をしていたから、家族全体が周囲の農村的雰囲気から浮き上がっていた。それで外で遊ぶこともなく、母親も暇だったから、子供養育に時間を割きその結果、私は幼児になっても乳児的側面を残していたのだ。」(P146)

 幼児期における不安障害「人見知り、分離不安」「退行」があったものと推測されます。小学校時代からは、強迫性障害が顕著に見られます。

 「もう一つ忘れ物恐怖というのがある。多分、小学校のころ、学校の授業に必要なものを始終忘れて、体裁の悪いおもいをしたことからくるのかもしれない。中学に入っても、その癖は抜けなかった。水曜なのに木曜の教科書をカバンにいれて登校してしまうのである。」(P162)

 「私は学校がきらいだった。それでも大学まで行ったのは、働くのがもっとイヤだったからである。

 忘れ物は大人になると、別の形をとるようになった。家を出て電車に乗りかけて、洗面所の水道をキチンととめてきただろうか、部屋のエアコンを切ってきただろうか、といったことが気になる。自分はそういうことを忘れるに違いない、という不安がある。多くの場合、大丈夫、オレはそんなだらしない人間ではない、と自分に言い聞かせる。それでもたとえば別荘の鍵を閉めてきただろうか、といったことが気になりだすと、家に帰りかけた車を5分もかけて戻って確認することがあった。女房はそれだから『鍵や電灯はアタシが見ますからね』と言う。確かに彼女に任せれば、不安になる必要がない、というのは、彼女の能力を信ずるからではなく、心配の原因になる仕事を彼女にまかせられる、というに過ぎないが楽は楽である。」(P162〜163)


 作家の多くは不安・うつを経験してきたために作家になったとも言えます。功利的な現実社会では生き辛い純粋な感性を持って生きてきたため、不安やうつとなり、それを克服するために心の葛藤・奥底を言語化し作品化し身体から切り離していく事で切り抜けていく。

 更に以前、「作家開高健の場合」で記しましたが、昭和一ケタ生まれの人に作家が多い事を指摘しました。昭和一ケタ生まれの人は、敗戦を多感な十代で迎えます。これは精神形成の上で大変大きな事です。天皇制の元、全体主義・軍国主義・植民地主義・鬼畜米英を叩き込まれ、100%信奉して全身全霊で生きてきた若者達に、8月15日を境に、今までの教えは間違いで、これからは民主主義・平和主義・親米英で生きて行くようにいわれても、純粋な精神であれば、自己の全否定につながり、とてもまともな気持ちでは生きて行けないでしょう。要領のいい人は、民主主義を善とし、自由を謳歌することができたでしょう。純粋な人は、社会の偽善に憤り、人間不信から絶望的な気持ちにもなるでしょう。無頼派作家達が生まれたのも必然でした。強い不安・うつを体験した曽野綾子や三浦朱門ら第三の新人と言われる作家が生まれたのも自然でした。

 三浦朱門は大正15年(昭和元年)1月12日東京都に生まれています。敗戦時は19歳です。曽野綾子は昭和6年9月17日に東京都に生まれています。終戦時は13歳です。彼女は幼稚園から聖心女子学院に通い、太平洋戦争中は金沢に疎開します。敗戦後東京に戻り、聖心女子大学文学部英文科を卒業します。同人誌『新思潮』を経て、山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビューします。占領軍に対する少女の屈託のない視点が新鮮で評判となります。翌年、24歳で『新思潮』同人の三浦朱門と結婚し、以後次々に作品を発表します。評論家の臼井吉見が曽野や有吉佐和子の活躍を「才女時代」と評したことは有名です。また同時代の女性カトリック作家三浦綾子とともに「W綾子」とも称されました。3人ともうつ病を経験しています。文学史的には遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、近藤啓太郎、阿川弘之、小沼丹、島尾敏雄、三浦朱門らと共に「第三の新人」に属します。遠藤、吉行、庄野はうつ病を経験します。

 曽野は30代の時うつ病、不眠症に苦しみます。

 「曽野綾子は30代のはじめ、ウツになった。正確に調べたかったら、彼女の年譜を調べると、その二、三年は発表された作品が少ないからすぐわかる。」(P35)

 原因は、妻として、母親として頑張りながら、流行作家としてもその期待に答えようとした無理が重なったと指摘しています。もう一つ若い頃より「閉所恐怖」があったとも記しています。不安うつ病だったようにも思えます。夜、三浦が大学から帰宅すると、ベッドで布団を被って泣いていたといます。「不安・抑うつ発作(ADF)」のように見えます。転機は三浦がアイオワ大学に留学することになり、親子三人でアイオワ州に住む事になったことです。日本という「閉所」から開放され、文壇ジャーナリズムからの好奇な視線からも開放され、徐々に自分を取り戻し、台所で再び小説を書き始めました。それが「無名碑」であり、うつからの開放となる記念碑的作品ともなりました。睡眠薬や安定剤は服用したようですが、かなり自力でうつ病を克服していった形跡があります。そのためか、その後の言動や著作には反動的な確信に満ちた挑戦的な叙述が多く見られるようになります。人間の「悪」を見つめ、「善」の欺瞞を糾弾し、日本人として強く生きていくことを主張しています。不安障害やうつ病の体験と、そこから逃げない自力での克服体験はその人をとても強くするようです。曽野綾子氏はそれを具現化し、現在も夫の三浦朱門氏と共同歩調を取る様にして活躍を続けています。

引用文献:三浦朱門著「うつを文学的に解きほぐす」(青萌堂、2008)

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.60 2010 SPRING