不安・うつの力(]]X)

英国王ジョージ6世の場合

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 本年度のアカデミー賞受賞作品は「英国王のスピーチ」という地味な作品でした。内容は、国王になる予定の無かった内気で吃音があるためスピーチが大変苦手だった王子が、突然第二次世界大戦直前に国王に指名され、対ナチスに対する威厳・威圧のためにも吃音のない堂々としたスピーチが求められ、必死の訓練から見事に吃音の無いスピーチを行い、英国民の不安を払拭し、英国軍を奮い立たせ、ナチスドイツに勝利するという物語です。このヒストリーの中で、映画になっている部分は、父親のジョージ5世からの命令で、クリスマスの御祝いのスピーチをしようとするも言葉が出ず、大失敗する所から始まり、ナチスドイツに対する宣戦布告のための国民向けスピーチまでの数年間で、主要な内容は涙ぐましい吃音治療と、その治療者ライオネル・ローグとジョージ6世の人間関係が確立していく様子をドラマチックに描いたものです。即ち吃音(社会不安障害)の治療がテーマの映画なのです。今ではフルボキサミンやパロキセチン等のSSRIを服用するだけで、特にこれといった苦労も無く普通に話せるようになりますが、薬の無かった時代はすさまじい、涙ぐましい治療.訓練を経てやっと克服できる事が映像表現されています。社会不安障害治療の歴史の貴重な再現映画にもなっています。

 ジョージ6世は1895年、ジョージ5世とメアリーの間の次男としてイギリスに生まれます。1923年、28歳の時、5歳年下のエリザベスと結婚します。エリザベスは、スコットランドの名門貴族の家の娘で、明るく気立て良く、誠心誠意夫に尽くしました。長男エドワードは弟ジョージと違い、ハンサムで精桿で、服装のセンスも良く社交的で国民からの人気も高く、誰からも次の国王と目されていました。しかしそれだけに女性関係も多く、1936年ジョージ5世が亡くなった後、王位を継ぎエドワード8世となるも、当時夫のいるシンプソン夫人と恋愛関係にあり、結局はその年に王冠を捨て、シンプソン夫人との恋愛を成就してしまいます。歴史上有名な「王冠を掛けた恋」です。王位は突然弟ジョージが継ぐことになり、スピーチができない国王に多くの国民は落胆し王室は華やかさを失いました。

 当時吃音は言語聴覚士が治療していました。妻エリザベスは何人もの言語聴覚士を邸宅に呼び、ジョージ王子の吃音治療を試みましたが、結果的にはどの治療も失敗に終わりました。その様な時、妻エリザベスが市井で評判の良い治療士の話を新聞で読み、直感的にこの人なら夫の吃音を治せるかもしれないと感じ、秘かに夫を連れ出し、その治療士宅を訪ねます。その治療士は実は全く無資格の偽治療士だったのですが、経験的に治す術を体得していました。その治療士がライオネル・ロークです。ロークは患者が王子である事を知りますが、対等の人間関係を求め、名前も愛称のパーティと呼ぶ事を求め、王子が好きだったタバコも声のために禁煙させ、他の一般患者と同様に手加減する事無く、厳しく鍛錬させていきます。それでもなかなか改善しません。最後にヘッドホーンを付けさせ大音響で音楽を聴かせ、その中でシェークスピアを朗読させ、それをレコーディングします。ジョージ王子は「こんなバカげた練習が何の役に立つ。」と吐き捨てるように言い、怒って出てしまい治療を終結してしまいます。そしてその後青天の震震の如く、国王に就くわけです。英国王ジョージ6世として、戴冠式のスピーチに思い悩んでいた時、あの大音響の中で録音した朗読のレコードを聴いてみたのです。何と、そこでの朗読は吃音の無い朗々としたジョージ6世の声が録音されていたのです。ジョージ6世はこの大音響の中での朗読の意味を悟るのです。外界を大音響で遮断してしまい、外界を意識出来ない状況に置かれれば、意識せず普通に話せる事実を知ったのです。治療を疑った自分を責め、再びロークの治療院を訪ねます。暖炉の前に、二人して座り、ウイスキーを飲みながら語り合います。此の時のロークは精神科医のようです。吃音になった背景には、言語習得時に何らかのトラウマがあったのではないかとロークは考えていました。信頼関係ができたこの時に、過去の体験が聴けると思いました。ジョージ6世は、国王という権威を置き、一人の弱い人間として幼少時代の事を語り始めます。厳しい乳母から、利き手を矯正され、話し言葉を何度も咎められ、却って吃音になっていった事を、厳しい父親ジョージ5世からの叱責でより吃音がひどくなっていった事を苦しげに語り尽くします。それをロークは受け止め、それらの呪縛を解き放つように声掛けしていきます。強固な信頼関係が完成します。そしてナチスドイツへ宣戦布告をするための国民向けのスピーチをする日を迎えます。ジョージ6世を支える首相はチャーチルです。チャーチルの目は如何にも「信頼しています」「あなたのために戦います」という目です。暗室のような部屋で、マイクを挟んでロークとジョージ6世が対峙します。開始時間の合図とともにロークは指揮者のように柔らかく手を振り上げ下ろし、その手の動きに促されるようにマイクに向かってスピーチが始まります。ロークは指揮者のように声は出しませんが、手を振り、口を開け、自らも歌うように指揮していきます。ジョージ6世はそれに合わせて、まるで歌手のように朗々と一言一句、国民や兵士の心に響くように語りかけていきます。国民や兵士の顔は徐々に明るくなり、自信がみなぎり最後は大歓声となっていきます。国民や兵士の士気は高められ、ナチスドイツへの戦いに対する自信が漲っていきます。スタッフや、首相、大司教の喝采の中を静かに歩き、バッキンガム宮殿のバルコニーに家族と共に立ち、何万もの国民の拍手に包まれそれに応えるように手を振りエンディングとなります。その遠い先に英国の栄光と安泰が感じられました。

 この映画の原案・脚本は73歳のデヴィッド・サイドラーが書いています。実は彼も幼少時からひどい吃音があり苦しんでいました。心配した両親は、彼に少しでもインスピレーションを与えようとジョージ6世のスピーチを何度も聴かせたといいます。ですからサイドラーはジョージ6世に吃音があり、それを克服して偉大な国王になった事を知っていました。いつかその物語を書いてみたいと思い、73歳にして映画化され、更にはアカデミー賞脚本賞を受賞する事になる訳です。ジョージ6世の偉大さと英国の勝利、サイドラーのアカデミー賞受賞は吃音、即ち社会不安障害によってもたらされた訳です。不安の力です。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.65 2011 SUMMER