一本三銘香 香道に用いられる香木は非常に古い歴史的に謂れのあるものが多い。その古い香木を注くことによって古の人を偲ぶことができる。それ故、お香を注くと時代がよみがえるといわれている。3つの銘が与えられている香木がある。これを一本三銘香(いちぼくさんめいこう)という。森欧外が一本三銘香の謂れを「興津弥五右衛門(おきつ・やごえもん)の遺書」という小説に書いている。その内容をここに要約しよう。 主人公興津弥五右衛門の祖父は現在の静岡県興津の出身で、今川家に仕えていたが、主である治部大輔とともに陣中で亡くなった。父、景一は幼少時に父を失い、母の出身地播磨に育ち、その藩主赤松家に召し抱えられた。赤松家は西軍石田三成に加担し、やがて滅亡した。景一は、その後、豊前の細川三斎忠興に召し抱えられた。主人公興津弥五右衛門景吉は次男であったが、19歳時より細川家に出仕した。 寛永元年五月、安南(現在のベトナム)から長崎に交易船が到着した折り、当時31歳であった弥五右衛門は同僚横田清兵衛と共に茶道に用いる珍品を買い求めてくるように当主 三斎公に命ぜられた。弥五右衛門は長崎に到着し、渡来物中で一番の絶品は伽羅の銘木であることを知り、これを買い付けようとした。ところが、伽羅の大木に本木(もとぎ)と末木(うらぎ)とがあり、この本木のほうは仙台藩伊達家と競り合いになって値がつり上がってしまった。同僚の横田清兵衛は無用の翫物の香木に大金を払うことはないと本木を買うことに反対した。弥五右衛門はこれを伊達家に買い取られては細川家の名折れになると主張した。横田は一国一城を取るか取られるかの話であればわかるが、たかが四畳半の炉にくべる木切れに大金を積むのは思いもよらぬことだと抗弁した。また、主君自らこのような浪費をするならばそれを諌めるのが本当の臣下であり、言われるとうりにするのはへつらいであると弥五右衛門をなじった。弥五右衛門は腹を立て、主君の命とあるならばたとえ人倫の道にはずれてもその内容に批判を加えることなく命令通りに実行するのだと言い張った。それは若輩の心得違いだと横田に馬鹿にされた弥五右衛門は、細川家は代々武道だけではなく歌道茶事にいたるまで堪能で、茶道も大切な礼儀であるから、主命であるなら身命にかけてもこの珍品を手にいれると言い寄り、香木に大金を出すのはおかしいと考えるのは、その道の心得がないためだと横田を馬鹿にした。横田は逆上し、自分は茶道に心得がない無骨者だが諸芸に堪能な弥五右衛門の武芸がみたいといって、弥五右衛門に脇差しを投げつけた。興津弥五右衛門は身をかわしたと思うと一刀のもとに横田清兵衛を討ち果たしてしまった。 弥五右衛門は思い通りに伽羅の本木を買い取り帰藩した。そして、当主に同僚を討ち果たしてしまったことを侘び、切腹を申し出た。しかし、三斎公は、興津弥五右衛門の心情と行動に理解を示し、これを許さなかった。その伽羅木は希代の名香であったので、三斎公はたいへん喜ばれ、何でも損得勘定だけで物事を見てしまうと世の中には貴いものがなくなってしまうといって弥五右衛門をたいそう褒められた。弥五右衛門は、三斎公忠興の興の字を賜り、それ以後、沖津を興津と改名した。そして、この香木に 聞く度に珍しければ郭公(ほととぎす) いつも初音(はつね)の心地こそすれ という古歌にちなんで”初音”という銘がつけられた。 その2年後、寛永3年9月6日、帝が2条城に行幸された折り、この銘香が所望され細川家の前の藩主妙解院から献上された。天子はことのほかこの伽羅木をお褒めになり、 たぐひありと誰かはいはむ末匂ふ 秋より後のしら菊の花 という古歌の心から”白菊”と名付けさせられた。妙解院は帝からの賞賛のお言葉を賜り感激された。そのため、その後興津弥五右衛門は妙解院からも目をかけられた。 寛永13年、この銘香伽羅木の末木を珍重してきた仙台伊達藩が亡くなった。この香木は、 世の中の憂きを身に積む柴舟や たかぬ先よりこがれ行らん という歌の心により”柴舟”と命名されたということだった。 興津弥五右衛門は、同僚を討ち果たしたが切腹を免除され三斎公に恩義を感じ仕えてきた。正保2年、三斎公が亡くなくなったので、弥五右衛門は新しい当主に殉死を申し入れ許された。その翌翌年、興津弥五右衛門は厳かに切腹した。その際、息子にあてて書かれた遺書に以上述べたことが書かれていたことになっている。 寛永3年、時の帝は後水尾天皇であるから、妙解院が伽羅木を献上した帝は後水尾天皇ということになる。天皇が命ぜられて命名された香木は勅命香と呼ばれている。ここに記したことが事実であれば、白菊が勅命香であることになる。この同じ香木に藤袴という香銘が後水尾天皇により命名されたという説もあり、どちらが勅命香なのか定かではない。そのため、一本三銘香は一本四銘とも言われている。 愛医 平成6年1月 医療法人 和楽会 |