理事長の診療に対する基本姿勢

 私は痛みをとることが医療の本質であると思っている。それは身体の痛みであれ、こころの痛みであれ同じである。この痛みをとるために、できるだけ多くの、そして正確な科学的な知識を動員し、患者に相対する必要があると思われる。このためには、日進月歩の医学を常に勉強し新しい知見を得なければならない。しかし、医学的知識をたくさん持っておれば立派な医療が行えるかと問われれば、否と言わなければならない。それは、医療は常にヒュマニティーに裏打ちされて実践されるものであると考えるからである。神経精神医学の診療でもヒュマニティーと科学が基本的要件であることは例外ではない。しかし、神経精神医学の進歩は他の医学の領域に比べたいへん遅れていた。科学的にはわからないことばかりで、経験と推定だけの医療だった。だから、今でも古いタイプの神経精神科医は直感で診断し、時期がこなければ治らないと諦観し、積極的な治療的干渉に手をこまねいていることがある。しかし、この20年の間に脳の科学が発達し、いろいろなことが少しずつわかり始めてきた。とりわけ、脳の化学的神経伝達物質の働きと精神の機能障害の関係が少しずつ明らかにされてきた。そして、精神障害の薬が次々と新しく開発されている。神経精神科医も昔のようにのんびりとしておられない時代にさしかかった。
 ミュンヘン大学の当時の精神科主任教授であったクレペリンが基礎を築いたマックス・プランク精神医学研究所は国際的にもよく知られた精神医学研究のメッカの一つである。20年前、私はここで2年間、神経精神医学の基礎となる脳研究をした。帰国後、いつしか私は、ドイツ精神医学とアメリカ精神医学を比較してながめるようになっていた。ドイツ精神医学は理論が先にたち、どちらかといえばあまり実際的ではないように感じられた。それに比べ、アメリカ精神医学では、患者の苦痛を一刻も早く取り去ることが先決であると考えていると思えた。アメリカ精神医学の根底にはプラグマチズムが流れ、より実際的で、患者本意であり、さらに、経済的効率をも常に考えているようだ。私の知っている教授の中には、アメリカ精神医学は底が浅いと批評する人もいるが、私はアメリカ式がよいと思っている。彼らは、治療における state of the art という言葉が好きである。これは、辞書をひもといてもなかなか載っていない熟語である。これは、その時点におけるあらゆる知識と最も進んだ設備を動員し、最高の治療をするという意味だと私なりに解釈している。そして、私自身も、 state of the art の診療をするよう励んでいるつもりである。
 私の専門は精神薬理学である。過去30年間の精神医学の画期的な進歩は、向精神薬の発達によるといっても良いであろう。私は、精神薬理学的知識と臨床経験を基に、眼の前の患者の病状に最も適した薬を処方する事に努力してきた。神経精神科では薬の治療は最も重要な治療法の1つである。だがそれがすべてではない。社会・心理学的治療法も大切だといわれている。これは、あくまでも科学的にその効果が証明されたものでなければならない。精神分析療法は科学的に証明されていない。行動療法や自律訓練法はその効果がコントロール研究で証明された治療法である。だから、このような考えを持った臨床心理士と私はコオペレートしてきた。
 最近、インフォームド・コンセントという言葉をよく聞く。これは、患者が充分な情報を与えられ、それを理解し、治療方針を納得し、医師と一体となり病気に対処していくことを意味している。こころの病気の治療の場でも、このことはたいへん重要なことだと思われる。患者は治療方針、特に薬について疑問や不安があれば何でも質問すべきである。このような観点から、慢性の病気の多い神経精神科診療では、患者・家族教育がポイントとなることが多い。そのため、私は病気を理解してもらうためにビデオやパンフレットを作ってきた。患者または家族に、その病気を充分に理解させ、また治療方針を納得させることが、病気をのりきるための大前提だと考えている。

医療法人 和楽会 理事長  貝谷 久宣