我慢のできる子できない子

 前回は子どもへの一方的な暴力が子どもをより暴力的にしてしまう、子どもへの理不尽な暴力は絶対あってはならないと指摘いたしました。今回は一向に後を絶たないばかりかむしろ一段とエスカレートしてきている少年たちの暴力犯罪について、視点を変えてもう一度考えてみたいと思います。

 ナイフによる少年犯罪の続発について当然のことのように様々な立場、視点から真剣な意見や考えが出され論じられております。

 平成10年2月25日付け朝日新聞紙上に掲載された教師刺殺事件についての座談会で、ある教育学者は「親や学校の期待に過剰に適応しているものの、心の皮を剥くと、本人でもわからない暗さや闇をもった子がかなりいる。対人恐怖があり、武装しないと自分が守れない。ナイフは彼等にとって象徴的なものになっている」と述べ、女性心理カウンセラーは「彼等は決して突然に”キレる”のではなく、我慢に我慢を重ね、限界まできて爆発する、子どもが我慢してきた状況を押さえたい」と語り、更にもう一人の教育研究者は「学校で傷つき、休みたくても休めない子どもが自已防衛しながら登校する。その道具の一つにナイフがある」と三人とも子どもをとりまくストレスフルな状況をまず問題視しております。このように少年犯罪の凶悪化を、あくまでも子どもをとりまく劣悪な環境状況から押さえていこうとする考え方は決して間違いではないと思います。しかしこの考え方だけでは、衝動的に凶器を振るってしまった少年たちに、自分達は、子どもに押しつけや我慢を強いる家庭や学校環境のストレスの犠牲者である。だから自分達がイラつきキレてしまうのは仕方ないことなんだと、已の犯罪行為を正当化させることにつながるのではと懸念されるのです。たとえ子どもであっても悪事や他人への迷惑行為は許されないのだ、理由の如何にかかわらず人間として絶対にしてはいけないことを犯すようなことがあれば子どもといえども応分の償いをしなければならない、という至極当り前の考えを、子どもはいうに及ばず大人たちも希薄にさせてしまっているように思われてならないのです。

 少年たちが、しかもそれまで特に目だった非行も問題行動も無かったと思われる少年たちが突然キレて凶悪な犯罪に及んでしまうことについて忘れてはならないのが、彼等自身の抱える問題性や責任性であります。

 私はなぜ彼等が我慢の限界を超えてキレてしまうのかについては、一概にはいえないとしても、我慢の仕方のまずさや足りなさという耐忍性の問題としてとらえることは可能だと考えます。自分の思いどおりにならなかったり、求めるものが求められなかったりすることを欲求不満(フラストレーション)と称し、欲求不満に耐えることを欲求不満耐性(フラスレーショントレランス)と呼ぶことはどなたでもご存じであります。私は子どもたちが突然キレて暴発したり、教室で好き勝手なことをして周りの仲間や教師を困らせたり、非行犯罪に走ったりする最大要因の一つが、この欲求不満耐性の弱さ未熟さにあると考えるのです。欲求不満耐性は生まれながらに備わっているものではなく、生後の経験によって体得強化されていくものであります。つまり子どもの耐忍性の強さは、その子がこれまで欲求不満になったとき、それをどのように受け止めどのように対処してきたかによって異なってくるというわけです。たとえば過保護でわがまま放題、思いどおりに欲求が満たされ欲求不満をあまり経験させられなかった子どもは、ちょっとした障害や不快な出来事にも耐えられない我慢の足りない人に育ってしまいます。逆に絶えず我慢を強いられ、欲求不満状況におかれ、それに対する合理的解決法を確立させてもらえなかった子どもも耐忍性の弱い人間になってしまいます。

 我慢の仕方のまずさや足りなさから些細なことでキレてしまい、重大な結果を引き起こしてもその責任性を自覚できないような子どもにしないために、親には、わが子に対し、幼い頃よりある程度の欲求不満を体験させながら、欲求不満への対処法を教える責任があると思うのです。今わが子が何を求めどうして欲しいのか、何故そうして欲しいのか、そしてそれはわが子にとってどうしても必要なものなのか、我慢させられないことなのか、親には、わが子に対しその辺の見極めを誤ることなく慎重に行うことで、こらえさせるべき時にはこらえさせながら、耐えることの大切さや、耐えることのできる己の本当の強さを実感できる人間に育てていく責任があると考えるのです。

 勿論それと同時に、親自らも耐え忍ぶべき時には耐えられる自制の効いた人間として子どもに接する必要があるのはいうまでもないことであります。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.12 1998 SPRING
岩館憲幸