読書と家族 〜私の体験から〜

 前回私はこのコラムで”感性”の見直しを呼び掛けました。最近子どもたちがすぐキレてしまったり非行犯罪の凶悪化傾向を示している一因として、自らの行為の結果の恐ろしさやそのことで相手に与える痛みへの想像力の欠如がある。相手の辛さや痛みを何よりも先に感じ取りイメージさせるのが感性の働きである。その感性を子どもたちも我々大人も一体どうしたというのだろう。次回はその感性についてもう少し考えてみたいと述べました。

 感性を育ててくれるものとして私自身がまず思いつくのは、幼少時に語り聞かせてもらった昔話や童話であり、少年時代に読んだ物語や小説であります。

 丁度二月前、読書週間でした。読書にちなんだ特集記事が新聞各紙に掲載されました。いずれも子どもたちや若者たちの文字離れが必ずといっていいほど指摘されておりました。

 折から学級崩壊が教育界最大の問題として浮上、NHKを始めマスコミが一斉にとりあげております。原因は様々で、しかも複合的なものだと考えられますから一概には言えないのですが、ある教師は「学習の習慣が身に付いていない、小学校の低学年では、文字や文章に習熟するには繰り返しが必要で、かなり粘り強さや集中力がいる。そういうことが欠落している。勉強についていけない落ちこぼれが、以前なら4年生頃からだったのが、今は2年生ぐらいから目立つようになってきている」と語り、更にこうしたつまずきについて、「能力格差というよりも、生活に大きな原因があると思う、その最大のものとして、本を読む習慣が薄れ、読書量が減ってきている。本を読むことで理解力や思考力など考える力が身に付く。だが読書をしないと、勉強する力の土台が育たない」と指摘しております。小さい頃からお話を聞いたり物語を読みながら、お話や物語の世界をイメージしたり、登場人物の気持ちを思いやることが少なくなっている。どうやら読書を通して感性を育てようとする力が、家族や学校から失われてきているということなのかもしれません。

 ここで私自身の読書体験を述べさせてもらいます。五〜六十年も昔のことです。今の時代にそぐわないのは重々承知の上、恥を忍んで思い切って書くことにいたしました。

 幼少時私は、祖母や母親から寝物語に怖い昔話をよく聞かされました。昔話や童話には人間の本性がありのまま素朴に表されていることがあります。残酷な殺しや報復をテーマに、淡々と語られたりするものです。祖母や母親の寝物語に出てくる鬼や鬼婆の姿を思い描いて、人の力の及ばない怖い世界のあることを漠然と感じさせられたことを私は思い出します。そしてその怖い世界とは、実は自分の心の中にあるのだとわかるのはずっと後になってからでした。悪いことをすれば当然の報いがあるのだと、いつでも思えるようになったのは、昔話や物語のお陰でした。幼少時私は度々鬼の夢をみました。鬼に手招かれたり、さらわれそうになる夢でした。寺に生まれ育った私にとって、民話や昔話に出てくる鬼たちは身近な存在だったのかもしれません。親が直接教えてくれなかったことを寺の本堂の地獄掛け軸や物語の鬼から感じ取っていたのだと思われます。本堂の天井から手招きする赤鬼と青鬼の笑い顔を今でも覚えています。その顔は昭和10年代発刊の日本少年国民文庫に連載されていた武井武男の人気漫画、「赤ノッポ・青ノッポ(鬼)」の顔によく似ていたようにも思われれます。

 今にして思えば、両親は人の道や、人としてあるべき姿などについて、教訓めいたことはほとんど言わない人たちでした。そのかわり、本だけはいくらでも読ませてくれました。だから幼少時には良いことも悪いこともその大方は読書によって教えられた気がするのです。しかしその肝心な本が私どもの子ども時代にはなかなか手に入りませんでした。小学校に上がる前から約一里の道のりを歩いて隣町の父方と母方の実家にしばしば遊びに行ったのは、伯父たちの豊富な蔵書が魅力だったからでもありました。小・中学校を通して、友だちは遊び仲間であると同時に、互いにそれぞれの家にある本を持ちより交換しては、後でその本について語り合う仲間でもあったのです。小学校の頃読んだ吉川英治の「三国志」や「宮本武蔵」、ユーモア作家・佐々木邦の「愚兄賢弟」、江戸川乱歩の数々の猟奇小説、講談社の厚い表紙の講談本、春陽文庫で9巻に及ぶ白井喬二の恋愛時代小説「祖国は何処へ」、宮沢賢治の童話集など、これらのほとんどが親類の家から持ち出したり父に借りてきてもらったものか、友だちから借りたものでした。読書に関しては、仲間との遊び以外他に楽しみのあまりなかった時代も幸いして、我々の世代はある意味では大変恵まれていたのかもしれません。しかしそれにもまして大きかったのは、両親が子どもたちに対して読書を最高の楽しみとする機会と環境を存分に用意してくれたことでした。

 読書のお陰で私は人生にとって大切なものを学び得たような気がします。物語や小説を読みながら、”人の心”の怪しさ・怖さ、おかしさ・悲しさ、愛しさ・憎さ、寂しさ・切なさなどを感じ取り、その余韻に浸りながら主人公の気持ちや物語の展開にイメージを膨らませるのは心ときめく大きな楽しみでした。しかしその一方で、現実の家族や仲間関係から、自分自身や相手の”心”の、ままにならない複雑さ・わかりにくさをイヤというほど思い知らされもしたのです。

 読書にはそういった人の”心”を瞬時に感じ取り、そしてその時己れがどう反応しようとしているのかを気付かせる、人間ならば絶対に失ってほしくない「感性」を育ててくれる効用があると考えます。

 新しい年を迎えるに当たって、誰しもがお互い幸せに過ごせるよう、幼い子どもへの読み聞かせや、読書を通しての家族間コミュニケーションによる「感性」の育成向上を切に願いたいものであります。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.15 1999 WINTER
岩館憲幸