諍(いさか)いの効用〜夫婦間コミュニケーション〜

 前回は、家族の絆はコミュニケーションのいかんにかかっている、黙っていては分かり合えないと、学生のアンケート調査結果を引用しながら、家族間コミュニケーションの大切さを改めて強調させていただきました。

 今回はここ数回取り上げ続けている夫婦間題に関連させて、夫婦間コミュニケーションの在り方について述べてみるつもりです。

 先日NHKラジオ深夜便の対談「日本人の『しつけ』はどこへ行った」で、テレビのナレーターとしても活躍しているベテラン俳優Y氏が、子どもの前では夫婦喧嘩を見せたことはないと語ったのに対して、ジエンダー研究で著名なH教授は、「子どもの前でも平気で夫婦喧嘩をしてきた。親の争う様子を目の当たりにすることで、子ども達は夫婦の、人と人としての関わり方を学び得たのではないか」さだかとはいえませんが確かこのように述べていたように記憶しております。相手を決定的に痛め屈伏させようとする一方的な暴言であってはいけませんが、相互理解を深めるための真剣な諍いだったら、むしろ子どもにとって、対等に言い争うことの意味や必要性、そのルールや手加減を学びとる絶好の機会になるというわけです。このようにして、たとえ喧嘩の相手であっても必要以上痛めてはならないという自制や寛容の心を身に付けていくことができるのだと思われます。

 またその一方で、分かり合おうとする気持ちを欠いて激しくやり合う言い争いの空しさ悲しさを教えてくれることにもなるのです。

 自分のことで恥ずかしいのですが、小学校時代の或る日、深夜いつもの両親の罵り合いで目を覚まし泣きだす妹弟達を見ていたら、彼等が哀れに思えてたまらなくなくなり涙をこらえることができなかったことを今でも鮮明に思い出します。普段は口数が少ないのに、酔うと理屈っぼい話を相手かまわず勃拗に繰り返す父でした。物事をとかく情で促えがちな母とはしばしば意見の食い違いがあり、諍うことの多い夫婦でした。道理を優先するあまり相手の気持ちに添うことの苦手な父に対しても、ただひたすら情に訴えるだけの母に対しても、かなり覚めた見方をしていた自分だったように思います。そのような二人でしたから、一度争いが始まると、いつまでたっても平行線、かみあうことなどめったにありませんでした。子どもの前でも言いたい放題、激しく争う夫婦でした。それでいてお互いに相手を決定的に痛め付けるような暴言暴力を見せることは殆どありませんでした。こんな二人の諍いから、徹底して話し合うことの大切さと難しさや、たとえ争いの相手であっても決して最後まで追い詰めることがあってはならないと思う気持ちを、知らず知らずのうちに学び得ていたのかもしれません。

 夫婦間の相互理解は口で言う程たやすいものではありません。いつも一緒で、いかにも親密そうに見える夫婦が、実はそれは見せかけに過ぎず、子ども達や周りの人達に仲良し夫婦を演じて見せているだけ、本当は心のあまり通わぬ夫婦だったりするのです。

 それよりも、言うべきこと、言わなければならないことを、いつでも対等に伝え合える”諍い夫婦”のほうがどれだけましなことか。”諍い”も相手を大切に思う気持ちや誠実さを失うことさえなければ、夫婦にとって効果的なコミュニケーション手段となり得るのです。

 夫婦間コミュニケーションについて興味深い報告があります。その一部を紹介してこの文を閉じたいと思います。

 「夫の意見に合わせ肯定的な言語表現の多い妻は、その時の夫婦関係においては満足しているように見えても、3年後には不満を増やしている。また妻は従順であればある程、夫婦関係は悪くなっている。一方、葛藤場面で意見が対立することの多い夫婦は、現在の夫婦関係は不満であると捉えていても、3年後には、そのような夫婦のほうがお互いの関係をより満足に思っている。逆に妻からのコミュニケーション意見交換の求めに応じないような夫の撤退行動(相手に返答しない、そっぼを向く、いい加減なことを言ってごまかすなど)の目立つ夫婦関係は、将来一層悪化する」  (Gottman & Krokoff 1989)

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.19 2000 WINTER
岩館憲幸