子育ては思いどおりにならない でも……

 今度は15歳の少年が、日頃親しく近所付き合いをしていた家族の皆殺しを図った事件でした。どうしてあそこまでやってしまわなければならなかったのか、少年の動機や事情がある程度見えてきたとしても、少年の身勝手で残忍極まりない行為には変わりないわけで、ここ数ヶ月、立て続けに発生した少年の凶悪犯罪の時と同じか、それ以上のやりきれなさや空しさに襲われてしまいました。そしてそんな時きまって気になるのは、自分が関わりを持つ少年少女や若者たちのことでした。あの子たちにこのようなことなどあるはずはないと思う一方で、いや、しかし絶対に起こり得ない話ではないのではという懸念を打ち消すことができなかったのです。

 「あの子は大丈夫だろうか、誰にも分かってもらえてないという絶望感や、思いどうりにならない”いらだち”などから取り返しのつかないことをしてしまうのではないか」心配しだすときりがありません。この6月、某高校の相談室最初の面接でうまく受け止められずそのままになってしまっている不登校生が気になりました。また以前勤めていたクリニックで治療は終結していたはずなのに、その後も時々電話相談があり、それがきまって中途半端な対応に終わってしまうY君のことが気掛かりでした。そしてとりわけ心配だったのは、カウンセラーとしてなかなか本人の期待に応えられず、失望感を与え続けているに違いない短大生A子さんのことでした。かかる心配懸念は私自身の取り越し苦労というもともとの性分によるものだと思うのですが、彼等にとっては心外極まりない話に違いありません。それが十分わかっていながら、気に掛けずにおれなかったのは、彼等には、いざという時の自己統制力という点でまだまだ心もとないところがあると思えたからでした。

 子育てをとっくの昔に終えたつもりの私が、早々と自立を遂げそれぞれ家庭を営んでいる娘や息子たちのことでもし何か変事があったら、親としてどこまで対応できるだろうかと不安になることがあります。そしてまた、一人っ子の孫娘が一人っ子故に我が儘に育ってしまうのではと心配になったりもするのです。私も家内も、たまに訪れる5歳の孫娘に対してどうしても大甘の”じじ””ばば”を演じてしまいがちだからです。

 出来栄えはともかくとして、一応二人の子どもを育て上げた私でも、今なお子どもたちに対してこのようなつまらぬ心配をしているのですから、子育て真っ盛りの親御さんが、少年による凶悪犯罪の続発で、余計にわが子の心理状態が気になり将来が案じられるといわれるのはよく分かる気がするのです。

 前置きが大変長くなってしまいました。今回は子育てについて、日頃私の考えていることなど述べさせてもらうつもりでした。

 子育てといえばこのコラムで親の子どもへの接し方について、「親の思いと子の願い」と「親のやり過ぎ構い過ぎ」というテーマで書いたことがあります。

 ”親は子どものためと思いながら、子どもに対して、子どもの気持ちや願いに気付かぬまま、余計なことをしがちである。それが子どもの自立心を育む上で障害になっている”確かこのようなことを言わせてもらったように記憶しております。

 子どもには、たとえわが子でも親の自由にはならない、その子に一番かなった生き方というものがあります。その子の持ち味や個性を無視した過剰な期待や干渉は、その子の真の幸せを摘み取ってしまうばかりか、思いもかけない人格障害や行動破綻をもたらしかねないのです。

 子育ては親の思いどおりにはなりません。でも子育ては親として避けることの許されない最大の責務であります。問題はどのような子育てをするかであります。すべて親の思いどおりにしようとするから失敗するのです。子どもにあれこれ望み、期待を掛け過ぎることをやめて、子育ての基本さえ為しえていたら、たいていの子どもはちゃんと育ってくれるものなのです。

 子育ての基本とは、将来わが子がどのような道を歩もうとも、社会人としてふさわしい行動がとれるよう躾けてやることであります。その躾とは社会人としてやるべきことはきちんとやり、やってはいけないことはやらないという”けじめ”の付け方を身に付けさせることだと思うのです。人間として許されないウソや不正は決してしてはいけないと常日頃子どもに教えてやること、それが躾の基本だと思うのです。フランスの親たちは子どもに、ウソは絶対にいけないことだといつも教えているのに、日本では子ども対して、ウソは許されないことだといつも教えている親は3割に満たないという調査結果があります。

 英国を拠点に日本の文化や家族に対して辛口の批判をする作家マークス寿子によれば、伝統的な英国の家庭では、盗みやウソ、いじめなど人道上の違反は理屈抜きにしかられる。ゴミのポイ捨てやトイレ汚しは、親が正しい処理のお手本を見せる。これを10歳までに終えているから、電車などで大股で席を占拠してるような身勝手なルール違反の若者がおれば、周りの人達がそのルール違反を正すのは自然な行為になっているというのです。わが国ではどうでしょうか。

 数年前のラジオ深夜便で、斜視があって小さい頃よくいじめられたという或る有名作家が、正確には覚えておりませんが、電車の中で”腰掛けていた小学6年生ぐらいの女の子が、自分の前にたまたまお年寄に立たれてもじもじしだした時、隣に座っていた母親が、その子に「ここは優先席ではないのだから譲らなくってもいいのよ」と言ったという目撃シーンを、現代日本の母親の子供への躾の実態を象徴するような出来事として語っていたのを思い出します。ちなみに日本の乗り物における席譲り度は西欧各国と比べかなり低いというデーターがあるのです。

 最近ある週刊誌が子育ての損得について読者の意見を求めております。子育てが親の期待や意図どおりにならないという思いの親御さんが少なくないことからこのような特集記事が企画されたのだろうと思います。

 最後に私の体験から、反省も含めていわせてもらうならば、親としての過剰な期待を子どもに押しつけるなということ、親として為すべきは、子供が将来社会人として様々な人と関わる時に欠かせない事柄について、直接間接に身に付けさせること、そして子育てとして最も大切なことは、事の善し悪しの判断ができて、周りの人に迷惑を掛ける事だけは絶対にしない社会人に仕上げることであります。もっともわが子たちはどうだったのかと改めて考えてみると、とてもそのように育っているとは思えません。共働きの私どもには親として子供に関われる時間は限られておりました。その代わり本は自由に読ませました。友達関係を何よりも大切にさせました。特に人間関係については親としての私どもがよい意味でも悪い意味でも手本になっていたと思います。

 それからたとえ親子であってもお互い譲れないものがあるということも子供たちは分かってくれていたのではないでしょうか。

 

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.22 2000 AUTUMN
岩館憲幸