お手伝いの効用

 首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」17の提言の中に「奉
仕活動の義務化」があります。奉仕活動は義務とか強制によって為されるものとは違う、あくまでもボランタリー、つまり自発的に為されるもの、それを国が義務化するのは矛盾していると批判の声も聞かれます。しかし自分さえ良ければいい、人のことなどどうでもいい自己チュウ人間を育ててしまっている最近の親たちには、もうあまり期待できないのだから、国もしくは学校がそのような親に代わって人間作りに本腰を入れて取り組まなければならない時代なのかもしれません。でも、人と共に在る人として、その最も人間らしい心の基礎作りが為される幼少時代に、好き勝手が許されたり、人を思いやる心を育ててもらえなかった子ども
や若者たちが、学校で俄かに奉仕活動をさせられて、それが果たして本当に身につくのでしょうか、いささか疑問を禁じえないのです。人のため皆のため役立とうと、労を厭わず働くというのはこの時代では流行らないからなのかもしれません。いじめにあっている仲間を、ただ手をこまぬいて見殺しにしてしまう人達の多い時代なのですから。

 しかしホームから転落した人を助けようと、二人の勇気ある男性(41歳の働き盛りのサラリーマンと26歳の韓国留学生)が、危険を顧みず線路に飛び下りて電車に跳ねられ、命を失った痛ましくも貴い出来事はついこの間の話であります。この悲しい救出劇を取り上げた週刊誌AERAの記事の中に、「人が人を助ける、という美しい行動を見て素直に感動する感性は日本人にも残っていた」という、在日外国人の問題に多く関わってきた、梓澤和幸弁護士のコメントが紹介されていましたが、同感であります(AERA・13・2・12)。日本人まだまだ見捨てたものじやないと思うのです。しかしその一方で、この記事に対する感想として、「今の日本の同じ26歳ぐらいの若者には絶対できないことだ」という同年代の若者の投書も寄せられていたのです(AERA・13・2・19)。

 前置きが長くなってしまいましたが、目の前に、助けを求めている人がおれば、自分のことは後回しにしてでも、その人を助けようと手を差しのべることのできる人間は、一朝一夕で出来上がるものではありません。学校で教え込まれる前に家庭でその基礎作りが為されていることが最も大切な要件の一つであると私は考えます。学校教育の中に組み込まれた奉仕活動が十分に効果を上げるためには、その前提条件として、人のために働くことが当たり前と感じる心の基本が備わっていることが求められるのではと考えるのです。

 ところが最近の子どもや若者には、そのような、心の最も大切な部分が欠落しているとしか捉えることができない程、勝手放題の振る舞いが目立ち過ぎます。「26歳ぐらいの若者には絶対できないことだ」という同じ年代の声があるのもうべなるかなと思われるのです。

 子育ては親の思いどおりにはならない、でも親として子どもに絶対手抜きをしてはいけないことがある、それは子どもの乳幼児期における親の躾であると、これまでこのシリーズで私が言い続けてきたことであります。

 躾とは、将来の自立的な社会生活に欠かせない、挨拶や他者への思いやりの行動化、善悪の判断やけじめのつけ方など、社会的スキルの基本を体得させることであり、日常生活の正しい習慣を身に付けさせることであります。

 幼少時の躾は、親や養育者の強制指示が伴うことが多いのは当然でありますが、同時に、親や身近な人達の日頃の言動も子どもたちのモデルとして、子どもの性格や行動様式の形成に大きな影響を与えていることを決して忘れてはなりません。

 子どもを人に役立つ人間に育てたいなら、家族皆で働く機会を出来るだけ多くつくることです。それも身近なところで日常的に行ってほしい。たとえば食事のあと片付け、父親も子供と一緒にやるのです。これから夫婦共働きがますます増えていくに違いありません。夫婦が家事面で協力し合うのは当然の時代であります。その中に子どもも加わって、仕事の投割分担を決めるのです。ほんの僅かなことでもよい。洗濯、布団しき、掃除、買い物、新聞雑誌の片付け等々、探せば何かが必ず見つかる筈です。少なくとも自分の着た物、使った物の後始末や部屋の片付けは必
ず本人にやらせること。父親も、やりっ放し、放りっぱなしのな
いよう、家族皆で協力し合うことの大切さを、自ら身をもって示すのです。

 残念なことに、わが国の子どもの一日当たりの手伝い所用時間は、年々減少しております。各国と比べても最低に近い。また食事のあと片付けを家族全員で行うとする割合の各国比較調査でも、西欧諸国と比べると、スウェーデンが約40%、アメリカ、イギリスが20%台、ドイツが17.5%なのに対して、日本は3.5%と格段に低かったのであります(1982、総理府)。かかる現状からも、わが国の家庭では、社会人として自立し、人のため社会のために役立つために必要な社会力の育成が十分に為されていないのではと懸念されるのです。

 家族一緒に働き、各人分担された仕事は家族間で決められた約束事として責任をもってやり遂げる、そこには親子共々一緒に働く喜びがあり、親子間の自然で生き生きしたコミュニケーションが期待できます。分担された仕事を、一緒に暮らす家族メンバー同士の、言わば義務としてやり遂げることで、家族のために役立ったという満足感と達成感を味わうことができます。その上、子どもたちが健全に育っていくために失ってはならない自己肯定感を高めてくれるに違いありません。そしてまた更には、最近の子どもはいうに及ばず、大人にも欠落しがちな自己責任感の育成にもつながると思うのであります。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.24 2001 SPRING
岩館憲幸