里子のしきたり

〜 母と“ばっちゃん”の回想から 〜

 わが国の代表的な祭り、花輪ばやしで有名な秋田県、鹿角市花輪には昭和の初め頃まで、地主や商家では、生後間もない子を乳飲み子として近郊の小作農家などへ里子に出すしきたりがありました。里親には農家の出産間もない夫婦が選ばれました。里子は実子ときょうだい同様分け隔てなく育てられ5〜6歳で生家に戻されました。農家には相応の子育て費用が支払われていたものと考えられます。かかるしきたりはいつ頃からのもので、この地方にだけみられる独特のものだったのかどうかについては定かでありません。

 私ごとのつまらない話になってしまうのを覚悟の上で、老母ミヤの里子体験を、ちょっと変わった子育ての史実証言として敢えて取り上げたのは、秋田の県北、かつては南部の領地だった小さな城下町に、少なくとも昭和の初め頃まで続いていた里子のしきたりは、日本の家族史の中で特異なものと位置付けていいのではないか、そのことを一度誰かに尋ねてみたかったからでした。

 大正4年8月農機具を商い果樹園も営む商家に、4人きょうだいの末っ子として生まれた母ミヤは、上の兄たちがそうだったように、生後間もなく里子に出されたのでした。ミヤが預けられたのは近郊の鏡田部落(村落の意)の大きな農家でした。ミヤは里親の実子と、前後して他家から預けられた里子と一緒に、同じお乳で姉妹のように育てられました。6歳になって生家に戻るまで何度か実の母親に会わされても、母という実感はもてませんでした。生家に戻されて間もない頃、里親恋しさのあまり、数えの6つという幼さで一里の道のりを一人逃げ帰ったこともありました。途中下駄の鼻緒が切れて泣いていたところ、通りがかりの見知らぬおじさんから腰の手ぬぐいを裂いてすげ替えてもらったことは、幼心にも地獄に仏の忘れられない出来事でした。

 ミヤは生家では末娘ということもあってかなり気ままに育ちました。特に父親(私の祖父)には可愛がられたようです。

 昭和7年県立高等女学校を卒業2年後、19歳で私の父道三と見合い結婚、その翌年私を生みました。

 父は母の生地花輪町に隣接する鉱山町の小さな禅寺の住職でした。それまで人任せの多かった母にとって、小さな庵寺とはいえ僧侶の妻・いわゆる大黒さんはとても気苦労の多いものでした。

 結婚2年目の昭和11年、鉱山の滓ダムが決壊、死者350人を越す大惨事となり、寺には次々と泥まみれの死体が運び込まれました。一歳の赤子だった私を抱え、おまけに身重であった母には、父と一緒に夜を徹して湯灌(死体を洗い入棺する)をし続けるのは苛酷そのものでした。でも人一倍負けず嫌いだった母(母のすぐ上の兄、平三郎伯父から「“ミヤっこ”は子供の頃から強情っ張りだったからな」と聞かされたことがあります)はへこたれませんでした。そんな折、母の様子を心配して現れるのが母の里親、“ばっちゃん”でした。母にとっていざという時一番頼りになり何でも相談できたのが鏡田の“ばっちゃん”だったのです。第二次世界大戦後の食料難時代に“ばっちゃん”から届けられるお米で何度助けられたことか。当時鹿角地方では、乳飲み子として育てられ、実家に戻ってからも身内同様の深い付き合いのある農家から、米野菜の援助を受けていた商家は少なくありませんでした(独協大学・奈良俊夫)。

 われわれきょうだいにとっても、“ばっちゃん”は実の祖父母以上に身近な存在でした。郷里の実家で行った私たちの結婚披露宴で、わざわざ控え室の花嫁姿を見にきて、「おもしろい、おもしろい(鹿角方言で、嬉しい、良かったの意)」と涙を流さんばかりに喜んでくれた“ばっちゃん”の笑い顔は、最高のファミリーの顔でした。

 乳母によって子育てがなされるというしきたりは、わが国では深く根付いていたと思われます。貴族社会や上級武士社会では生母と共に同じ敷地内に住まう乳母が子育てのすべてを任せられていたのでしょう。それゆえ乳母には、乳飲み子である幼児に対して、生母以上にしつけや教育の責任があったのだと思われます。一方鹿角地方の里親・里子の関係は、乳母である里親の家に預けられて、里親の実子や、同時に預けられた他の里子と一緒に分け隔てなく育てられるという点で、他では見られない特異なものだと考えられます。

 里親制度に関しては、欧米では実子がありながら家庭に恵まれない子どもを養子や里子に迎えるのが普通であるのに対して、日本の場合は子どもがないため、家の後継ぎとして養子や里子を迎えるというのが一般的といわれております。それ故日本では欧米と比べ、養父母・子にとって実の親子でないと分かった際の衝撃は大きいかもしれません。それよりも最初から里親・里子と割り切っていたほうが、かかる衝撃は少ないわけだし、家族がばらばらになったり逆に密着し過ぎることが起こり難いのではないでしょうか。核家族化、子どもの塾通い、未熟な親の再生産等々家族のエゴを生みやすい状況が増えております。子どもや家族よりも自分の要求を優先してしまう親も少なくありません。実の親によらずとも愛情さえあれば子どもは立派に育つものなのです。幼少時親から離れて、他者と交わる機会を持てた子(0歳児保育等)は社会化が早く進み不登校が少ないという報告があります。

 そういえば秋田の田沢湖町を本拠地に全国規模で活動している劇団“わらび座”は団員の子どもたちを共同で育てていると聞いたことがあります。

 今まさに家族は、家族の在り方そのものが問い直されているといっていいのではないでしょうか.

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.33 2003 SUMMER
岩館憲幸