日本短波放送「メディカル コ−ナ−」
 演題「不安・恐怖症を起こす脳内物質」

医療法人 和楽会

心療内科・神経科 赤坂クリニック
なごやメンタルクリニック

 理事長 貝谷久宣

放送日
平成10年10月25日(日)22時30分〜50分
録音日
 平成10年9月9日(水) 午前10時収録

 パニック障害は、誘因無く突然生じるパニック発作を主症状とする、不安障害の一つです。パニック発作は、激しい不安とともに、動悸、発汗、震え、息切れ、窒息感、胸痛、吐き気、めまい、現実感消失、発狂恐怖、死の恐怖、手足の麻痺感、冷感または熱感といった症状の4つ以上が、予期せず突然出現し、10分以内にその激しさは頂点に達します。このパニック発作は、非常に強い恐怖感や不快感を伴うため、患者は次の発作を恐れ、自分の体に重篤な病気が潜んでいるのではないかと心配し、日常行動に変化が出てきます。

 ではパニック障害の臨床を見てみましょう。症例は19歳の女子大生です。患者の陳述のままを述べましょう。夜中の2時か3時くらいに、いきなり パッと 目が覚めまして、体の中がグラつく感じがしました。急に体が興奮したようになって、ガタガタと震えてきました。何が起こったか説明しにくい、アーアー といった感じ、それがずっと続いた。それで死ぬ恐怖に襲われましたので、お父さんのところへ行ってお父さん助けて、走り込んでいった。それで本当に胸が詰まってしまって苦しくて「救急車を呼んで!」と叫びました。親たちは、私が意識も失っておらず、はっきりしているのに、救急車を呼ぶ必要がないようなことを、落ち着いた様子で話していました。私はそれどころではなかったのに!とにかく救急車を呼んでもらいました。救急車に乗っているときも意識ははっきりしているのですが、病院に着いたときは、ガタガタ震えてただ寒いだけで、私はどうなってしまうだろと恐怖心でいっぱいでした。しかし、そこの先生は過呼吸だから心配ないの一言で、そのまま帰されたのですよ。それから毎晩のように寝ると発作が起こるようになってきました。また、夜間だけでなく、食後お腹が膨れてポッ−としているときとか、場所ところかまわず発作が起きるようになったのです。それからというものはいつも発作のことばかり考えて、恐ろしくて恐ろしくてたまらなくなりました。

 これは以前不安神経症といっていた状態です。1980年、米国精神医学会の診断分類は、不安神経症をパニック障害と全般性不安障害に分けました。これを機に、それまで心因性という考え方が重きをなしていた、不安神経症の大部分の症例がパニック障害と呼ばれるようになり、生物学的な見地から理解されるようになりました。この疾病概念の変化は、精神医学における、革命的な出来事の一つであると考えられます。実際、パニック障害の発症を誘発するストレスはうつ病よりも少なく、高血圧や喘息といった内科疾患と変わらないと言う学者もいます。パニック障害の生物学的基盤を考える上で4つの大切な事実があります。

@.パニック発作は種々な物質で誘発され、薬物で抑制されること、A.遺伝的要因が高いこと、B.ノンレム期すなわち夢を見ていない深い睡眠時にパニック発作が起きることがあること、C.PETスキャンで脳に異常所見が見られることです。

 本日は、このパニック発作を誘発する物質について述べてみたいと思います。動物実験でサルの青班核を電気刺激すると、不安・恐怖状態となり、その自律神経症状は人間のパニック発作時に見られるものとよく似ています。青班核は脳幹部の橋というところに左右一対ありノルアドレナリンという神経伝達物質を作るニューロンが視床下部、大脳辺縁系及び大脳皮質の隅々まで神経線維を送っています。パニック障害患者に、青班核ノルアドレナリンニューロンの活性を高めると言われているヨヒンビンを投与すると、約6割の患者ではパニック発作が生じます。反対に、ヨヒンビンと全く逆の薬理作用のある、臨床的に降圧剤として利用されているクロニジンは、パニック発作を抑制します。喘息の薬として使用されているイソプロテレノールはベーター受容体を刺激し、ノルアドレナリン系の活性を高めます。この薬もしばしばパニック発作を誘発します。これまで述べたパニック障害とノルアドレナリン系の関係を見てみると、パニック障害ではノルアドレナリン性神経細胞の活性がもともと高いので、それに対応して、ノルアドレナリンを受け取るベーター受容体の感受性は低くなっていると考えることが出来ます。

 さて、パニック障害の疾病概念は、イミプラミンといううつ病の薬が、パニック発作を抑制したことから確立されたと言っても過言ではないのですが、この抗うつ薬は実験的には青班核ニューロンの発火を抑制する作用があります。しかし、イミプラミンはヨヒンビンによるパニック発作を抑制することが出来ません。このことは、イミプラミンの臨床効果はノルアドレナリン系を介していると言うよりは、セロトニン系を介している可能性が強いことを示唆しています。セロトニンも脳内の主要な神経伝達物質の一つです。このセロトニンで作動する神経細胞はやはり橋にある縫線核という神経細胞核です。この縫線核は脳幹部や大脳皮質に、また、不安・恐怖といった情動と関係の深い大脳辺縁系にも神経線維を送っています。食欲抑制剤フェンフルラミンはセロトニンの放出を促進させる作用がある薬ですが、パニック障害患者がこれを服用すると、パニック発作を引き起こすことがあります。また、セロトニン受容体を直接刺激するメタ・クロロフェニールピペラジン(m−CPP)はパニック障害患者ではパニック発作を起こしますし、健常者では、激しい不安を引き起こします。このm−CPPはトラゾドンという抗うつ薬の代謝産物として体内に取り込まれることがあります。興味のあることに、このm−CPPをパニック障害以外の不安障害の患者に与えると、強迫症状が悪化したり、全般性不安障害の不安が高まったりします。このようなことから、セロトニンは不安・恐怖症の体質を持っている人の脳に働き、その症状を誘発すると考えられます。すなわち、セロトニンは不安を引き起こすことにより、その人が持つ特有の病気の症状、たとえばパニック発作や強迫症状を起こす引き金になると考えることが出来ます。覚醒剤、ヒロポンは現在まだ社会の裏側では根強く生きています。この物質は、ノルアドレナリンやセロトニンが神経終末から放出されるのを促進させます。パニック発作を起こす患者の中には、覚醒剤の使用をきっかけに発病する人が時々見られます。このようなパニック障害は、頑固で治療抵抗性であることが多いようです。

 ベンゾジアゼピンは、抗不安薬・睡眠導入薬として、幅広く使用されています。ベンゾジアゼピンは、脳内の抑制性神経伝達物質 GABAの働きを高める作用があります。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬は、パニック発作治療のファーストチョイスとなっています。ところが、1980年不安症患者の尿中に増加していた、ベーターカルボリン誘導体がベンゾジアゼピン受容体に強い親和性があることが発見され、この物質が脳内にもあることがわかりました。この物質をドイツの研究所で5人の男性に投与したところ激しい不安発作が起こりました。この発作はきわめて激しく、どうしようもできないくらいになり、ベンゾジアゼピン系抗不安薬を注射したところ、すみやかに不安感は消失したと言うことです。ベンゾジアゼピン系受容体に親和性のある、フルマゼニールという薬は、外科手術の後に麻酔前投薬により生じた、眠気を取り去るのに使用しています。この薬を健常人に投与しても何ともありませんが、パニック障害患者に投与すると高い割合でパニック発作を起こします。

 パニック障害という疾病概念の確立に、大きく貢献したニューヨーク コロンビア大学のクライン教授は、パニック障害患者に、5%炭酸ガスを吸入させ、パニック発作が起こることを示しました。炭酸ガスを吸入すると、血液中の炭酸ガスが増加して、血液が酸性傾向になります。すると、呼吸中枢の神経細胞が、呼吸を促進させる方向に作用します。これがパニック発作につながって行くわけです。また、血液中の炭酸ガスが増加したという情報が、青斑核に達し、パニック発作を引き起こす可能性も考えられています。クライン教授は、炭酸ガスを吸うと容易にパニック発作を起こすパニック障害の、窒息誤警報仮説 を提唱しています。パニック障害患者では、脳内の炭酸ガス受容器が、健常者より過敏になっているため、わずかな炭酸ガスの増加にもオーバーに反応し、その情報が窒息を防ぐ脳内の警報装置を誤作動させ、自律神経系に緊急警報を流し、呼吸困難や窒息感、胸の不快感、逃げ出したくなる衝動を生じてくるものと考えました。このような炭酸ガスに敏感な体質は、閉所恐怖症に通じていくものと考えられます。

 運動によって筋肉に蓄積する乳酸も、パニック発作を引き起こす物質の一つです。パニック障害患者に乳酸ソーダを持続的に投与すると、パニック発作を生じます。そのメカニズムは、十分に解明されていませんが、乳酸が体内で炭酸ガスになり、呼吸中枢を刺激し、パニック発作に至るという仮説もあります。乳酸がパニック発作を引き起こす、と聞いた患者さんの中には、乳酸菌飲料をとろうとしない人がいますが、これは全くの間違いです。

 私がクリニックで診察したパニック障害患者287名中、コーヒーを飲んだ後にパニック発作を起こしたり、激しい不安感を経験した人は54名(19%)ありました。米国の研究では、コーヒー5杯分のカフェインをパニック障害患者に経口投与し、約7割の患者にパニック発作類似症状が観察され、血液中のコルチゾールの上昇がありました。カフェインは、脳内のアデノシン受容体を阻害すると考えられていますから、パニック障害患者では、アデノシン受容体が過敏になっている可能性が考えられています。

 胃腸管ホルモン コレチストキニンは近年脳内の興奮性神経伝達物質であることが判明しました。このペプタイドのアミノ酸4つからなるCCK−4は、正常人に投与するとパニック発作類似症状が見られます。また、パニック障害患者に投与すれば、自然発症と区別のつかないパニック発作が見られます。CCKー4と同じアミノ酸から構成されるペンタガストリンは、CCK−B受容体に特異的に親和性を持っています。このペンタガストリンにもパニック発作誘発作用があるので、パニック発作は、CCK−B受容体を介して生じると考えられます。現在、このCCK−B受容体を特異的に阻害する物質がパニック障害の治療薬として検討されています。