パニックの認知療法 A 〜危機管理 平時と有事の作法〜 少し前のことになります。 深夜のトーク番組で、著名な評論家が「平時と有事」の対応について興味深いことを話していました。 国家の危機管理に関連した内容だったので、認知療法とは何の関係もないと思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。 話を要約すると、平時と有事には別の「ものの見方」をする必要があるというのです。 評論家が重要人物の身辺警護の任についていた当時の出来事です。十分な人員を配置してもらうことができず、手薄な警護を余儀なくされるという状況下で、あろうことか、当の要人が襲われるという事件が起こりました。 このとき評論家のかっての上司がとった対応は、被害者の無事を最初に確認した後、評論家を慰労するものでした。ところが、内閣の中枢にあった人物が最初に発した言葉は、何と彼を難詰するものであったというのです。 評論家は、人の上に立つものが有事にとるべき態度の例として、直属の上司の対応を高く評価する一方で、部下を非難する愚を犯すような対応を否定していました。 有事において、被害者が無事であることを確認し、最悪の事態が回避できたとして、事態のプラスの側面をすばやく見て取れたことが、上司の適切な対応をもたらしたのです。そして、批判的であった別の人物は、襲撃そのものが阻止できなかったことを指摘し、事態のマイナス面にこだわることによって、部下の反感を買うことになったのです。 評論家は、コップの水を見るとき、残っている水に注目するか、空になった部分に着目するかの違いであると話していました。 ところで、国家の危機管理と共通したことが、こころの病気とその治療を語るときにも重要になります。 たとえば、あなたがうつ病になって、職場復帰が順調にいかず、先行きの不安に悩んでいるという場面を想像してください。あなたは朝も昼も自宅で横になってテレビを見ながら実はうわの空の状態で、どんなことが放送されていたのかすら記憶できていません。しかし、頭のなかに何もないか、というと、そうではありません。 繰り返しあなたの脳裏には、「もう一度仕事ができるようになるだろうか?」という思い(認知)がよぎるのです。 「もう一度仕事ができるようになるだろうか?」という認知は、あなたに苦痛をもたらします。 試しに「もう一度仕事ができるようになるだろうか?」とじっくり考えてみてください。それだけでも、胸苦しくなって、落ち着かなく、不安になることが、あなたにも想像できるでしょう。 そこで、あなたは苦痛なことにわずらわされないようにします。「考えないことにしよう」と懸命になって、「もう一度仕事ができるようになるだろうか?」という認知を脳裏から追い払おうとします。考えることをやめさえすれば、不安にならずにすむと思われるからです。 いかがですか?あなたは苦痛な認知から逃れることができましたか?不安を遮断することに成功しましたか? 追い払っても、追い払っても、「もう一度仕事ができるようになるだろうか?」という認知はあなたを追いかけてきて、あなたを不安にさせ続けるのではありませんか? 健司という名の患者さんも、あなたと同じ現象に苦しんでいました。そして、その認知から逃げ切れずに、受診しました。 私の処方箋はこうでした。 「最悪の事態としてどのようなことがありうるのか、考えてみましょう。そして、それに対する備えをしてみませんか?」 健司さんは驚いたようでした。今まで自分の不安を打ち消そうとして、無理やり事態が最良の結果になることだけを考えていたのに、それとは反対のことを要求されたからです。 パニック障害の場合にも同じことが言えます。 「パニック発作が起こるのではないか?」と心配になると、あなたは何とか不安が強くならないように、プラス思考で対応しようとしてはいませんか?呪文を繰り返すように「大丈夫」と言い聞かせるだけになってはいませんか? パニック発作のときが有事であるなら、発作のことを心配しているときは平時なのです。 平時には最悪の事態を想定して、もっともあなたが恐れていることに対して準備をする必要があります。 脳裏から消し去ろうとしている不安な予測に、真正面から向きあうことが、平時こそ大切になるのです。 「自分は何をもっとも恐れているのだろうか?」と自分のこころに問いかけることが重要なのです。 そして、発作に見舞われた有事には、少しでも自分が対処できたことを見つけだそうとする態度が必要になるのです。 トーク番組で評論家が指摘していたように、有事にはコップのなかに残っている水に注目し、事態のプラス面を評価してみるのです。 いかがですか?あなたはどう思われますか? 文献 鳴門教育大学人間形成基礎講座教授 井上和臣 |