パンの神

医療法人 和楽会 理事長
貝谷 久宣

 この季刊誌の読者にはパニック障害を患う人が多いので、今回「パニック」という言葉の起源について考えてみたい。

 パニックはギリシャ神話に登場するパンの神に由来する。ギリシャ神話は複雑でいろいろな話が入り混ざり、パンの神についての記載も種々様々であるが、ここでは筆者がパンの神について興味を持った部分を記す。

 パンはアルカディア地方に住む神である。パンの父、ヘルメスはドリオプスというギリシャ先住民の王が所有する羊飼いをしていた。そのとき、ヘルメスは一人のニンフ(山、川、森などに住む少女姿の各種の精、転じて乙女、美少女)に恋をし、それが充たされてこどもが生まれた。それがパンの神である。パンは山羊の足と2本の角を持ち騒々しく笑う不思議な子供だった。母親はこの異形の子を見て、飛び上がるほどに驚き、逃げてしまった。鬚の生えた異常な子供に乳母もつかなかった。父 ヘルメスは困りはて、その子供をウサギの皮にくるみ、オリンポスの山に連れて行き、不死なる神々の仲間に紹介した。パンを見たすべての神々はパンに興味を示し、喜んだ。とりわけ、ディオニソスの神はパンを強く可愛がった。このようにこの不思議な子供は「すべて」の神をなぐさめたので、パン(すべて)と呼ばれるようになった。

 パンは食べるパン(bread)と同義であり、「養育するもの、牧するもの」という意味を持ち、パンの神が家畜とりわけ山羊の神とされるようになったとの別説もある。

 パンの神は岩かげに横たわって昼寝をすることが好きであった。しかし、この午睡中に誰かが物音を立てたり、笛を吹いたりして安眠を妨げると、パンの機嫌は著しく悪くなり、山々に響く大きなうなり声をあげ、石つぶてを投げた。この怒りがあまりにも激しく恐ろしいものであったので、羊が狂乱して大騒ぎが起きた。そのため、羊をなによりも大切にする羊飼いたちはパンの機嫌を損なわないようにつねにおどおどするようになった。パニックという言葉は、パンのために羊が荒れ狂い、ひいては牧者も大いに怖れおののくという話にその起源を持っている。

 このようなことから、暗いもの、恐怖を起こさせるもの、陽根的なものがパンの神の特性とされている。

 パンがこのようにネガティブな特性を持つ反面、この神は歌舞音曲に秀で、陽気で、享楽的、そして機知に富む天性をも持ち合わせていた。パンは山猫の皮を来て山のニンフを集め、笛を吹き、輪舞することが好きであった。アポロンにはかなわなかったが、彼の演奏は素晴らしく、その笛の音は快く、春のどんな小鳥の声よりも美しく聞こえたと言われる。また、パンは好色でニンフを追い回した。多くの場合、アポロンと同じように成功をおさめたが、それでもうまくことが進まなかった話もいくつかあったようである。ニンフのエコを慕ったが、エコはパンの異様な外形を怖れ、彼の望みから逃れた。そのため、パンの怒りにより、羊飼いよってエコは声だけにされ、それも他人の言葉を繰り返すことしかできない山彦になってしまった。

 パンは、月の女神セレーネに強く心を奪われた時には、これにこりたのか、白い羊の皮を身にまとい恋人を誘ったという。パンの求愛から逃れようとしたニンフがその他にもいた。ピデュスは神に祈って松の木に変身してしまったし、シェリンクスはアシになってしまった。パンはたくさんのアシの中からシュリンクスを見分けることができず、その中の1本を取ってシェリンクスというアシ笛を作った。

 パンが機知に富むことを示す話は、日本神話の中の話と類似した点があり興味深い。

 まず古事記に記されている天の岩屋の話の概略を示そう。

 アマテラスオオミカミがスサオオノミコトの乱暴に腹を立て、天の岩屋に立てこもってしまった。すると世の中は夜が続き、悪鬼の被害が起きるようになった。困り果てた八百万の神は集会を開き対策を練った。アメノウズメノミコトが神懸かりの状態で天の岩屋の前で、胸もあらわに踊り回った。これに八百万の神が笑い転げ、高天の原が大騒ぎになった。何事が起こっているのかとアマテラスオオミカミが岩屋の石の戸を少し開いて伺い見たところで、待ち伏せていたアメノタジカラノカミがアマテラスオオミカミの御手をとって外に引き出した。それによってまた地上に陽光が戻ったと言う。

 ギリシャ神話の中でアマテラスオオミカミを演ずるのはデメテル・メライナである。ポセイドンが女神を強姦してしまったことにデメテルが憤怒のあまり身を隠してしまった。すると、大地から生じるすべての生が枯れ死寸前になった。そのため、人間も飢えのために死に瀕した。しかし、どの神もデメテルの居場所を知ることができなかった。そのような窮状に、アルカディアの神パンがデメテルのひそんでいる洞窟を探し当て、ゼウスに報告した。ゼウスは、運命の女神モイライをやり、デメテルの怒りを静め、再び大地に実りがよみがえったという。

 筆者はパンの神についての調べで、2種類の類似点に興趣をそそられた。一つは最後に述べたように、ギリシャ神話と日本神話の類似点である。もうひとつは、パンの神もパニック障害患者も昼寝を好むことである。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.24 2001 SPRING