「私という人間」 K E I

 私の書く支離滅裂で、子供っぽい文に目を留めてくださって、どうもあリがとう。

 自己紹介します。私はPeopleです。この自己紹介で十分だと思います。なぜかって、年令や、性別や、趣味や、体型…など、”生きている”という究極の共通点がある限り、必要ではない気がしたからです。あと、Peopleって英語で書いたのは、なんだか、私は人間です、って書くと宇宙人と比べてしまいそうな気がしたからです。(私だけかな)。余談ですが、英語っていいと思いません?敬語とかないし、人に伝えたい言葉が必要最小限しかない。だから、相手に伝えたい事を、ダイレクトに伝えられる。

 私は、そんな英語が好きだけど、話せません。だから、話せる様になる。これ、私の、数ある目標の中の一つです。

 私が、初めて自分の”目標”というのを考える事ができる様になったのは、二十代になってからです。それまで、はっきり言って、”生きている”のが精一杯でした。今は、実は、この時の事については記憶にないので、次回(はたしてあるのか!?)にさせて頂きたいと思います。

 話は変わって、親から子供が生まれるというサイクル、これは永遠です。人類が滅びない限り。前に何かで頭に残った言葉で、「私は親によって、勝手に生まれてきたんだから、親に何でもしてもらうのは当然!!!」と、言った感じのフレーズで、確かに、親が勝手に自分を生んで、自分は生まれてきたくはなかった、と言ってしまえば、それまで。でも、現実的に生まれてきちゃったから、しょうがない。生まれてきた時点で、親は、”自分以外のPeople”になるのでは?だって、親だって、「自分はこんな子供に育てた覚えはなかった」と、思ってしまえば、平行線だから。

 私は、前は、自分しか愛せない人間でした。でも、今は(自分の事って、自分でもよく分からないけれど)、人類を愛せる気がしています。もちろん、好き嫌いは誰にでもあるわけで、好きな人、嫌いな人を筆頭に、好きな物、嫌いな物、好きな仕事、嫌いな仕事などなどがあるわけですが、それを超越して、人類があると思っています。人生って、自分以外の人と比べたって、何ら意味のある事ではなくて、要は、自分がどれだけ快適でいられるか、とか、自分にどれだけ優しくしてあげられるか、とか、自分とどれだけ戦えたか、が問題になってくるのでは?と思っています。

 自分を大切に思う事で、相手、それは、ただすれ違っていくだけの人だったり、家族だったり、つまり、人間の、長い様で、実は短い人生で出会う人々への見方も違ってくるかもしれません。

 そうすると、意識しなくても、タフになれるし、超が何個かつくほど、ポジティブになれる。それが一番。おまけとして、思いやる心がついてきたりするから、不思議。

 終わりに、この文章を書き始める時から、ずっと思っていて、今一番私個人が言いたい事を言います。

 「私が、こんな文章を書ける様になったのは、先生、H・K先生のおかげです!」

 主治医からの一言 : KEIさんはうら若き女性です。”20代になって生きる目標が出来る前”の悩み多き青春時代のKEIさんについて少し記しておきましょう。KEIさんはひとりっこです。幼稚園の頃より人と接することが苦手で、中学生の頃は自分に親切にしてくれる友人はいましたが、グループに入れない状態でした。中学1年生のときに電車の中でいたずらをされてから電車が恐くなりました。来院の理由は、視線恐怖,会話が持続できない、争いごとが嫌い、ストーカーが恐い、ということで引きこもりになってしまったことです。治療により現在はまた大学に通うようになりました。KEIさんのような人は、専門的には 「社会不安障害」と診断されます。要するに対人恐怖症です。社会不安障害は、人からじろじろ見られる場面が恐怖の対象になります。それは、人前で恥をかくのではないかとか、自分の評価を低く見積もられるのではないかという恐怖が根底にあるからです。赤面恐怖症、書痙、スピーチ恐怖、対人緊張、などはすべて社会不安障害の症状です。最近までは、対人恐怖は性格だという考え方がありましたが、最近は研究が進み、対人恐怖を病気として捉え、積極的な治療ができるようになりました。新しいよい薬が登場し、薬物療法と認知行動療法が効果を発揮します。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.25 2001 SUMMER