身体と心 医療法人
和楽会 理事長 先日、ある禅僧の話を聞く機会がありました。その高僧によれば、曹洞宗では身体の修行により悟りの境地に向かい、臨済宗では心の鍛錬から悟りに向かうのだと言うことでした。曹洞宗の本山である永平寺を訪れると、若い修行僧がきびきびとした立ち居振る舞いで仕事をしています。永平寺に入山すると、起床から就寝に至るまで厳しい戒律のもとに行動が制限されます。洗面の仕方から箸の上げ下ろしまで一挙一動が細かい規則に縛られています。日常のすべての行動が修行なのです。もちろん、只管打座、ひたすらに座禅をしているあいだに肝が座り、腹ができ、やがては悟りの境地に達するというものであります。一方、臨済禅では心から修行にはいると言われている。公案といわれる難問が師匠から問題提起され、それを何日も何日も考え続け工夫して解決します。公案の中でもっとも人口に膾炙されているのが「隻手の声」です。すなわち、両手を打てば音が鳴ります。片手を打っても音は出ない。その片手の声を聞いて来なさいというのが問題です。この種の設問の解答は常識的な思考形態で得られるものではなく、全く異なった次元にはいることにより達成できるとされています。曹洞禅では身体から、臨済禅では心から悟りに向かうのですが、結局、どちらから入っても到達点は同じであるということです。すなわち、心と身体は不即不離、身心相関ということです。 何年も何年もの間不安で不安でたまらない状態を経験している患者さんは結構多いと思います。パニック障害患者のもつ不安は健常者が経験することのない病的不安です。すなわち、理由のない不安を持つのです。このような慢性的な不安を持つ患者さんを診ていると、別な意味で心身相関の均衡状態が崩れていたのだなと考えさせられるケースがあります。Aさんは、茶碗焼きを始めとした豊富な趣味をもち、センスのある着こなしが身についた50台半ばの主婦で、2年前から通院されていました。パニック発作が初発してから30年近く経っているので、最近は激しいパニック発作は全くなく、上記の理由のない浮動性不安と頭が重いとか胸がなんとなく苦しいといった非発作性不定愁訴だけがありました。副作用が出て服用できなかったSSRIが少しずつ服用できるようになり、症状はかなり改善してきていました。ところが、ある日ご主人が患者さんの代わりに診察室に来られました。理由を聞くと乳がんが見つかり入院されたということでした。パニック障害患者さんの多くは、たいしたことのない身体症状を大げさに考え、重大な病気をあれこれと心配するというのが常であり、Aさんも乳がんを気にして非常に落ち込んでいるのではないかと心配しました。ところが、筆者の想像に反して、Aさんはけろっとして入院生活をされているそうです。今まではわけのわからない病気で悩んできましたが、今度は身体の異常がはっきり出ているので、不安はそんなに強くないということでした。癌−死に至る病を得てもAさんは泰然自若として闘病生活を送られている。一体これはなんということでしょうか。Aさんは癌という重大な身体疾患を目の前にして、驚き、怖れ、臆病といった精神的な弱さを一掃して、自己本然の心に目覚められたのだと私は思いました。酷な言いかたかもしれませんが、身体的に重篤な病を得て、ある意味で心身のバランスが得られたのかもしれません。 ケ セラ セラ<こころの季刊誌> |