「パニック障害とともに」
H.T
私は、ある日、ある時、たとえようのない恐怖感に襲われた。それが、私の人生観を変えることとなった。何かに押しつぶされそうな恐怖だった。屋内に一人でいた私は、その空間からただ、逃げ出そうと屋外に出た。サンダルを履いていたと思う。外もよく晴れた暖かい陽気だったように記憶している。自分をとりもどしふっと気が付くと、少しはなれたところにご近所の奥さん二人が話をしていた。私に気づき「Aさん、真っ青よ。どうされたのですか?」と声をかけてこられた。とっさ的に何か言ってごまかした。
家の中に入った。もう、その家は今までの家と違っていた。そして、その恐怖は、私からすべてのものを排除した。この日がいつだったかいまだに思い出せない。季節さえ覚えていない。その日から、私の中で時間が止まった。ただ、息をして生きている私だった。
怖い、怖い、一人になりたくない。そして、矛盾しているようだが、目に入るものすべてが私には無縁だった。受け入れることが出来ない。もちろん、家族は戸惑った。理解できるはずがない。私自身そのときのことを言葉にすることなど出来なかったのだから。
夫や子供たちが出かける朝が来る。身支度をし始めると泣いてはいけないと思いながら止められない。泣き顔を見せないようにするのが精一杯だった。地獄のような一日が始まる、一分、一秒の時間の経過が苦しい。目に入ってくるものが全て、私自身と無縁のものなのだ。そのなかに自分をおいていることがどんなに辛いか、言葉にすることなど出来なかった。それは、力ーテンであり、テーブルであり、壁でもあった。まず、テレビを観ることが出来なくなった。買い物にいけない。乗り物に乗れない。あらゆるものからシャットアウトされた生活。そんな中で犬の散歩だけはするしかなかった。戸外に出たがる犬を放って置くことは出来ない。道端の花も周りの風景も目に入らない。ふっと小さなすみれ色の花を目にした。何も感動しない自分がいることに気が付いた。なぜ、なぜ、いったい何なの?この現象は?
近くの大学病院で受診した。「ストレスから来たものですね。この薬は眠気を催すので車の運転はしないように。」眠くなるばかりで、何もしたくない。出来ない。恐怖に押しつぶされそうな毎日。一回のカウンセラーを受け数万円、宗教で救われるなら、入信してみよう、あらゆることに、ふらふらしながらさまよった。時はそうしながらも過ぎた。四季などない。ただ過ぎた。娘が私の手を握り「お母さんがどんな風に辛いかは私にはわからない。でも、どうしようもなく辛い思いをしていることは分かる。御免ね、御免ね。」二人で泣いた。温かかった、あの柔らかい手の感触は今も覚えている。だから、私は生きた。
そして、数ヶ月、いや、数年が経った。時問とはありがたいもので、私の苦しみも少しずつ慣れっこになっていった。だからといって、家に一人でいられるわけでもなかった。ただ、私、私を取り囲む家族や姉妹達の中にこのままどうにか時が過ぎていってくれるのであろうという一種の焦りではなくあきらめの様なものが出てきた。そんなある日、夫が帰宅するなり一冊の本をさし出した。「お母さんの病気はこれじゃないのかなあ?」差し出された本は「パニック症候群」貝谷久宣著というものだった。聞きなれないその病名に一瞬身じろいだ。開いてみたくもあり、反面怖くもあった。恐る恐る1ページ、2ぺージと捲った。アー、私の症状だ。これだ、これだ!私はもう本を閉じた。結果がどうなるのか知りたくなかった。私は本棚にもどした。しかし、その本が頭からはなれることはなかった。
家に一人だった。何故か本を手に取り読んだ。衝撃的だった。「治るのだ、この病気は、治るのだ」心の中で叫んだ。すぐに、電話をかけた。電話がつながったところは病院ではなく相談窓口のようなところだった。相手の男性に今の私の症状を話した。そして、一ヵ月後の予約がとれた。
一ヶ月はあっという間にやってきた。夫と共に約一時間半、電車を乗り換え赤坂見附の駅にたどり着いた。赤坂クリニックが六階であることを確認してエレベーターに乗った。こんな事はどうでもいいことだが、あのときの私の複雑な心境を分かって欲しい。問診に答え、数分後に呼ばれた。「Aさん、どうぞお入りください。」今も鮮明に覚えている。今まで尋ねた病院の雰囲気とは違っていた。何かに包み込まれたような温かさがあった。窓から陽が差し込んでいた。貝谷先生の斜向かいに座ると、「あなたは、パニック障害です。辛かったね。死ぬほど辛かったね。」その言葉を耳にしながら、アー、私は救われると思った。涙が流れた。まるで、何年もの間降り積もって硬くなった雪が解けるように、私は泣いた。それだけで十分だった。その先生の一言で十分だった。この苦しみを分かってくれる先生、いや私以外の人がいた。席を立つ前に「必ず良くなるよ。良くなりますよ。」二度繰り返された。診察室を出た。夫と目が合った。言葉も交わさず何もかも察したようだった。薬と次回の予約をとった。通りに出ると夫が、「お腹がすいたから何か食べようか?」私に聞いてきた。何年ぶりだろう、外食するのは。オムライスを注文し二人で向かい合って食べた。話すこともなく。「これからしばらく通院することになるだろうから、それは、家に帰って相談しよう。」ぽつんと言った。次の回は、夫がどうしても抜けられない仕事があるので無理だと言った。長女が、私が学校を休むから心配しないでといってくれた。その頃、長女は大学進学を控え進路をどうするか一番大変なときだった。
毎食後の薬を呑み少しずつ精神的、肉体的に安定してくるのが自覚できた。しかし、そうしながらもあの日の恐怖はいつも私の背中に背負われていた。子供たちがいないときに、何度、夫に記憶喪失にして欲しいこのネクタイで私の首を絞めて!まるで、駄々っ子のように泣き嘆いた。夫は、ただ私を抱きしめた。
クリニックに通っているうちに、そこで自分の受診の番を待つことが苦にならなくなった。付き添いから徐々にどこかで待ち合わせて通院するということにしていった。又、私の気持ちの中にもいつまでも夫や子供たちに頼っていてはいけない、家に一人でいることが出来ないなら、私から一人にならない場所を探そう。こんな風に周りに目が配れるようになっていった。結局、夫の職場の近くでパートとして働くことにした。通動は、夫や子供たちの時間に合わせるようにし、なるべく一人にならないようにした。仕事をしていても暇な時間があると、あーどうしよう!といった気持ちが出てくる。その繰り返しだった。しかし、確実に良くなっていった。すでに、あの怖い思いをして六年余り経っていた。初期の頃、人と接していても相手をまるで感情を持たないロボットのように感じることもあったが、幸いにして人と接することが好きだったこともあり職場の人たちともうまくやっていけた。しばらくして職場も家の近くに変えた。外で働くことを楽しいと思うようになった。
結婚して以来、家事、育児、手を抜くことがない私だった。と、いうよりそれが精一杯だった。そんな私が外に出て働くとは思ってもいなかった。実際、家の中は掃除が出来ていない、食事も適当なものしか出来ない。家族も不満だったろう、私自身もそれが我慢できなかった。いや、今はいいのだ。何よりも自分中心でいいのだ。もう自分を追い詰めるのはやめよう、いつの間にかそう考えるようになっていた。
四十八歳になった。私の十年余りの年月はなんだったのだろうか?パニック障害と闘っている間に、子供たちは大きく成長し、夫はその逆に白髪も増えていた。私は?長女が時々そばに寄ってきて何気なくこう訊ねる。「お母さん何か生きていく希望がある?」即答出来ない。先日、又聞いてきた。やはり答えられない。すると長女は言った。「私の赤ちゃんが生まれたら、最初に抱いて欲しいのは誰でもない、お母さんよ。だから、今はそれを希望にして。」
わたしの苦しい数年間を共にした、夫、長女、次女、そして私をいつも静かに見ていた愛犬。長かった。しかし短くもあった。大声で言いたい、私は生きているよ!生きることは、それだけで充分すごいことなんだよ!私が、出会ったパニック障害が私にもたらした物は、余りに大きかった。さまざまなものに対する考え方も変えさせた。
今、私は新幹線に乗っている。山口県の片田舎で年老いた両親が静かに生活している。二人で寄り添って過ごしている父と母に私の元気な姿を見せたくて、片道五時間の一人旅。そう、私の旅。私の人生の旅もケセラセラ。自分らしい人生を送りたい!
ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.33 2003 SUMMER
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