涙のあふれる診察室
医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣
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Sera Sera VOL.46 2006 AUTUMN
臨床医の中で患者の涙に遭遇することが一番多いのは心療内科医であろうか。私は、診察中にお泣きになる患者さんを一日に5人以上診ることがよくあります。診察机の脇にはいつも涙を拭いていただけるテッシュ・ぺーパーは欠かせません。泣くのはもちろん女性だけではありません。先日、診察椅子に座るや否やおいおいと泣き出した初診の30代の男性がいました。ただただ泣くばかりで問診ができません。やっとのことで口を開いていただきました。この男性は、奥さんと二人だけで洗濯屋をはじめたところ非常に繁盛し、休む暇なく働かなければならない羽目になったということでした。それは大変ありがたいことなのですが、このような客の注文に追われる生活が続き、肉体的にも精神的にも疲弊困憊の極に達し、私のところを訪問されたということがわかりました。この男性は自分の日常生活を話そうとした瞬間、毎日のつらさが思い出され意に反して涙があふれ出てきたようです。
パニック障害をもった患者さんは正確な診断と適切な治療がなされずに、いろいろな医療機関をめぐり歩くことが多いものです。私のところに初めて訪問され、自分の病状や病歴を懸命に述べられ、いままでにずいぶん大変な苦労をされてきたことを話されます。一通りの診察を済ませ、"あなたはパニック障害です。きちんと治療をし、療養の仕方をしっかり守ればどんどんよくなっていきますよ!"と私が話すと、多くの患者さんは目に涙を浮かべられます。これは、ほっとした安心感の涙かもしれません。つらい病気を長いこと耐えてきた自分をいとしみ哀しむ涙かもしれません。または、長いこと苦労してきた無念さの悔し涙かもしれません。人それぞれの複雑な感情が込められた涙だと思われます。
では、医学的には涙とは何でしょうか。涙は、本来、眼球表面を潤し、細菌感染から目を保護し、目の動きをスムーズにさせる分泌液です。涙は、まぶたの裏側の耳側寄りにある小指頭大の涙腺で作られます。そこに集まる血管から漏れ出した血液から赤血球などの大きな成分が除去され、透明な液体である涙が生成されます。涙腺からは普通毎日0.5-1.0ml(1分間あたり約0.001ml)の涙が分泌されていますが、目から流れ出ません。分泌された涙はまぶたの鼻側寄りにある小さな穴(涙点)から鼻涙管を通り鼻の中に排出されるためです。ところが、感情の動きが激しく変化すると、脳の中の神経回路が働き、涙腺を支配している顔面神経(副交感神経)の活動が促されます。そうすると鼻への排出量をはるかに越える大量の涙が作られます。そして、涙が目からあふれ出ます。自律神経には交感神経と副交感神経があります。これらの二つの神経系は拮抗状態を保ちながら、いろいろな環境に身体を順応させています。交感神経は非常事態に働く神経です。交感神経が活発に働くと、瞳孔が大きくなり、手に汗が出て、心拍が早くなり、血糖が上昇し、体から大きな力を出すことができるようになります。交感神経は、いわば、戦闘開始に働く神経です。一方、副交感神経は終戦時に働く、休息をもたらす神経です。心臓の鼓動をゆっくりさせ、消化管の働きを高め、エネルギーを蓄える方向に働きます。この副交感神経の刺激によって涙腺が興奮し、涙の産生が促進されるということは、涙を流す時というのは身体が休戦状態に入ったときであると考えることができます。喜怒哀楽で戦闘時に現れる情動、すなわち、怒りが生じたときには涙は出ません。恐れたり、怒ったりするのではない、副交感神経優位になっている穏やかな戦後の感情状態で涙は出ることになります。
いろいろな涙模様を見てみましょう。“嬉しさともありがたさともつかない涙”、“嬉しさに涙が止めどもなく流れてきた”、“手をとり合って大歓喜の涙に咽ぶ”といった嬉し涙があります。5シーズン連続二百安打の大記録を打ち立てたイチローは会見の後のほうでふっと目に涙を浮かべていました。しかし、涙が見られるのはなんと言っても悲しいときが圧倒的に多いようです。“ものを食べることによって食欲が満たされるように、涙を流すことによって悲嘆が満たされる(三島由紀夫)”。“涙ぐむ”、“目をしょぼしょぼさせる”、“喉を詰まらせる”、“胸に熱いものが流れる“、”すすり泣く“、”しくしくと泣く”などの慎ましやかな涙から、“ボロボロ涙を流す”、“はらはらと落涙する”、“とめどもなく涙が流れる”といったあからさまな涙もあります。悲嘆の程度も大きくなれば、“深深と息を引いてしゃくりあげさめざめ泣く”、“せきを切ったように泣き咽ぶ”、“鳴咽がこみあげてくる”、“大声で泣きじゃくる”、“身をもだえて号泣する”、“身を懐わして慟哭する”。涙が出るのは嬉しいときや悲しいときだけではありません。“優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙があふれて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。ロの中の飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた(林芙美子‐放浪記)”といった安堵の涙もあります。人間の高等感情である真善美に感動しても涙が出ます。“あんまり綺麗なもん見たりしたら、感激して涙が出てくるねん(谷崎潤一郎‐卍)”、“光栄、これに過ぎたるはなし。感泣のほか、さらに何もなし(井伏鱒二‐遥拝)”、“私はこの素晴らしい光景に感動のあまり涙を流してしまった”などといった具合である。
筆者も診察室で涙ぐんでしまったことが最近ありました。Sさんは妊娠前からパニック障害の治療に来院している患者さんです。妊娠前も妊娠中も不安が強く大変な患者さんでした。しかし、無事かわいい女の子を出産しました。その女の子Tちゃんは大変ひとなつっこい子で、私はTちゃんを膝の上に乗せてSさんの診察をすることがしばしばありました。ある日、病状が悪化したSさんはご主人とともに来院しました。そして、どうしても短期入院をしなければならないことになりました。そんな深刻な状況をTちゃんは私の膝の上で、とても可愛らしい笑みを浮かべて黙って聞いていました。その顔を見た瞬間、わたしはおもわずしらず胸がつまってしまいました。すべてを理解していながら、無邪気な表情で母親を優しく見守るTちゃんをみたら、けなげさ、いじらしさ、痛ましさ、可愛らしさなどいろいろな感情のミックス反応の涙をこらえきれなかったのです。
さて、「涙のあふれる診察室」の本題にはいります。今、筆者が一番注目しているのはパニック障害や社会不安障害を持つ人が示すうつ状態です。不安障害に伴ううつ病であるので、私はこれを不安うつ病と呼んでいます。一日中、ほとんど毎日うつ状態が認められないことから最近は「プチうつ病」としてマスコミで取り上げられています。中等度以上の不安うつ病では不安・抑うつ発作が見られます。多くの場合、夕暮れから真夜中にかけて普段の気分とははっきり区別できる精神状態となります。そして、まず理由がなく涙が出てくるのです。それと同時に、またはそれに引き続き、いらいら感、絶望感、孤独感、羨望などの感情が湧きあがってきます。そして、人によっては自傷行為があったり、家から外に飛び出したり、物にあたったりする行動が見られます。このとき、ほとんどの患者さんはなぜ涙が出るかわからないと言います。このような状態には、情動においては身体的変化が決定的意義をもつことを主張する、ジェムス・ランゲの学説がよく当てはまります。すなわち、一定の刺激により情動が起こり、その結果、身体的変化が起こるのではなく、刺激を認識すると、まず反射的に身体的変化がおこり、これを知覚したものが情動として現れる。「われわれは悲しいが故に泣くのではなく、泣くが故に悲しいのだ……」ということになります。不安うつ病の場合、ある想念(多くは過去のいやな体験)が刺激となり、自律神経の不安定を引き起こし、その結果、息苦しくなったり、心拍が乱れたり、冷や汗が出たりします。そのような自律神経症状のひとつとして落涙が生じるものと考えられます。そしてその後に、悲哀感をはじめとする種々な情動が意識されるのだとかんがえられます。パニック障害や社会不安障害そのものの治療はさほど難しくありません。これらの不安障害に伴う不安うつ病には大変手を焼くのです。この不安うつ病を上手に治療するための研究を私たちは現在進めています。それはいろいろな薬物を組み合わせて処方する試みであったり、不安うつ病に特定した認知行動療法でもあります。嬉しい涙、楽しい涙、感激の涙は良いですが、患者さんの悲しい涙はさようならできるよう頑張っていきたいと思います。
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