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  ダーウィンはパニック障害だった?!

『種の起源』を著して神中心の従来の世界観を根底から覆したチャールズ・ダーウィン。

不幸なことに、彼には若い頃からの持病があった。

彼の生涯についてまわった病気の症状を現代の医学的見地から検討してみると、「ダーウィンの病気はパニック障害であった」という観をもつ。

彼の生涯の素描を通じて、パニック障害という病気の特徴を解説してみることにする。

 チャールズ・ダーウィンは、ロバート・ダーウィンを父として、スザンナ・ウエッジウッドを母として、ダーウィン家の第五子、次男として1809年2月12日、イギリス中部のシュルーズベリーで生まれました。祖父も父も医師で、父ロバートは若い頃から開業し、尊敬と成功を一身に受けた人でした。母の実家は、現在も貴重品扱いされる陶器製品ウエッジウッドの製造元でした。彼は、ケンブリッジ大学を卒業後、22歳のとき、ビーグル号に乗り世界一周の旅に出かけ、植物学、動物学、地質学の観察と標本採集をしました。30歳のとき、『ビーグル号航海記』を著しています。

 この見聞にもとづいて、50歳になってから『種の起源』を完成しました。この本の主題である”進化論”は、それまでの天地創造の神をいだくキリスト教的世界観を一変させてしまいました。

 この歴史上の偉人ダーウィンには若い頃から持病がありました。この病気について、多くの人がいろいろな説を唱えてきました。しかし筆者が、ダーウィンの病気を、この20年間にその概念がつくりあげられてきたパニック障害という病気と照らし合わせてみたところ、一致することがたいへん多いことに気づきました。まず、ダーウィンの伝記や自伝から彼の病気のあらましをみてみましょう。

ダーウィンの病気はパニック障害そのものである

  パ二ック発作の初発症状または前駆症状

 1831年、ダーウィンが22歳の時、調査用軍艦ビーグル号による大航海への出発を前にして、かれは2ヶ月間もプリマス港に足どめされました。天候が回復せず、二度も出帆しましたが、激しい強風と高波で引き戻しました。そして三度めの12月27日にやっと外洋に出ることができました。この間のことをダーウィンは自伝でつぎのように述べています。

 「プリマスでのこの2ヶ月は、私はいろいろな方法で努力してみたけれども、私がかつて過ごしたときのなかで最も惨めなものであった。私は、これからとても長い間、家族や友人達の全部と離れていることを考えると意気消沈したし、天候もいいようもなく陰鬱なものに思えた」

 ダーウィンはもう二度と生きて帰れないのではないかと不安感におそわれたようです。そんな状態で、ダーウィンは心臓のあたりに針で刺すような痛みを感じました。一時期、医学の勉強をしたことのあるダーウィンは、自分の胸痛を心臓病だと思いましたが、ビーグル号への乗船を拒否されることをおそれ、診察を受けませんでした。ダーウィンの胸痛はその後ひどくならず、航海中も再発することはありませんでした。しかし、今度は港を出るとまもなく船が激しく揺れはじめ、ダーウィンはたちまち船酔いに苦しみました。この船酔いは2年の予定が5年に延びたこの旅行中、船に乗っている間ずっとつづきました。

  本格的なパ二ック発作の出現

 帰国後2年たった28歳の時、都会の社交的な行事や、学者としての日々を過ごすようになりだした頃から、ダーウィンは病気がちとなり、都会の雑踏、うすぎたなさ、閉じこめられた気分に耐えられなくなりました。このような不調のなかで、1839年、30歳になる年に、人生におけるかがやかしい二つの出来事−結婚と『ビーグル号航海記』の出版−を迎えますが、ダーウィンはだれの目からみても幸福にはみえませんでした。

 ダーウィンは疲れやすく、めまいや吐き気に悩まされました。同年、長男ウィリアム・エラズマスが生まれる少し前より健康状態は一段と悪化し、とくに、パーティなどに出席したあとの疲労が激しく、動悸、めまい、吐き気、嘔吐、からだのふるえが起こっていました。ダーウィンは27歳で帰国した後、ロンドンで過ごしましたが、それから32歳になるまでの5年間に、じつに10回以上も寝込むという状態になりました。

  パニック障害の慢性化

 33歳になり、ダーウィンはロンドンを離れ、イギリス南東部のダウン村に引っ越しました。引っ越した当初は身体の具合もよく、客を招いたり、ロンドンにしばしば出かけていました。ところがまもなく、彼の健康状態はまた下り坂となっていきました。ダーウィンは自分の健康状態を自伝のなかでつぎのように語っています。

 「私が若くて丈夫だった間は、人と非常に親しくつきあうことができた。しかし、後年には、たくさんの人たちになお非常に親愛なる感情をもっていたにもかかわらずだれとも深くつさあう力を失ってしまった。私のよき親友であるフーカーやハクスリーにたいしてさえも、以前ほど深くつきあえなくなった。思うに、私がかかる悲しむべき感情の喪失にしだいにおかされていったのは、妻や子どもたち以外の人間と一時間も会っているときまって消耗し、後でひどい苦しみが起こることが予期されたからであろう」

 ダーウィンは、ことに、来客との談笑中に具合が悪くなることが多く、別にこれといった理由もないのに、興奮し、身体がふるえはじめ、激しい吐き気に悩まされました。

 ダーウィンの半生はほとんど病苦との戦いでした。しかし、父に似て長身、すこし猫背であったががっちりした体格、よい血色、快活な態度、こういった彼の外見は病身のそれとはほど遠く、当時、彼の病苦を理解した人はあまりありませんでした。

 ダーウィンの老後は妻と子どもに囲まれたおだやかな生活でした。体調が崩れると一日中客間でぶらぶらしていました。彼の持病は若い頃ほどではありませんでしたが、眠れないことが多かったようです。身体の調子のよいときは、朝の散歩、書斎での仕事、午後は夫人に小説を読んでもらったりピアノを弾いてもらったり、ときには子どもの家を訪問したりの生活を送りました。

 ダーウィンは1881年の暮れ、心臓発作で倒れました。この発作からはすぐ回復しましたが、翌年になって、病状が急速に悪化し、みぞおちの痛みと不整脈が出現しました。そして、1882年4月18日、73歳と2ヶ月で帰らぬ人となりました。

ダーウィンの持病の要約

 ダーウィンの病気は22歳の時、ビーグル号に乗船する直前の胸痛にはじまりました。それは後年起こってくる病気の軽い前駆症状だったのか、または激しい発作症状の発病とみなすこともできます。その後数年して、興奮、めまい、吐き気、心悸亢進、ふるえの発作がしばしば起こり、持続症状として全身倦怠感が認められ、抑うつ気分があったように推定されます。このダーウィンの病気は、半生を通じ悪化と軽快を繰り返す慢性病でした。また、彼の症状を説明する器質的な徴候はまったくなく、明白な診断は下されていません。また、他人の眼からみると、たいした病気ではないようにみえました。

 ここに述べた特徴から、ダーウィンがパニック障害にかかっていた疑いが強くなります。病気の症状はもちろんのこと、発症年齢、慢性の経過、はっきりした病気の症状を説明する身体的な異常のないこと、これらの事実は、ダーウィンがパニック障害にかかっていた可能性を強く示唆しています。

パニック障害の症状とダーウィンの持病

 筆者は、多数のパニック障害患者さんを診てきました。多くの患者さんをみているとパニック障害になる前に、甲状腺機能亢進症、メニエール病、過換気症候群などはっきりとパニック障害とは別の病気を認めることがしばしばありました。そして、パニック発作のおもな症状もそれらの病気と関連することが多いようです。

 ダーウィンの病気の場合、それより以前に心臓の症状がありましたが、その後5年間にわたって悩まされた船酔いが大きく影響していると思われます。それは、彼のおもな発作症状に船酔いと同じようなめまいや吐き気があったからです。

 パニック発作は本来誘因なく突然起こることを特徴としますが、ある決まった状況でよく起こることもあります。しばしば経験される状況は、乗り物の中(とくに運転中)、人混み、美容院や歯科受診中、そして会議や談笑中などです。ダーウィンの場合は、談笑中に発作がしばしば生じる状況依存性のパニック発作であったと考えられます。

 筆者が診てきた患者さんのなかにはパニック発作が適切に治療されず中高年にいたった患者さんも多数いらっしゃいます。このような人たちでは、症状が発作的に出現することは少なくなり、慢性的身体的な不定愁訴に変わります。さらに、人によっては持続的なうつ状態(抑うつ気分よりむしろ自発性低下が前面に出る)や外出とか乗り物に対する恐怖症が認められます。

 ダーウィンの後半の人生はパニック発作が治療されず、ずるずると慢性化した心気症状態にあったものと考えられます。また、ロンドンからダウンの田舎町に引っ込んでしまったことや、状況的には幸福であってもよいのにそのようにみえなかったこと、さらに若い頃と異なって人との交際をしなくなっていったことなどをみると、軽いうつ状態が遷延していたことが推察されます。また、「都会の雑踏、うすぎたなさ、閉じこめられた気分に耐えられなくなる」という記述から、ダーウィンに広場恐怖症の併発も認められます。

 ダーウィンの死因は心筋梗塞と考えられますが、これはパニック発作自体と直接関係はありません。しかし、パニック障害患者の死因は心臓病がもっとも多いという研究が報告されています。

パニック障害と性格

  目的志向的・仕事熱心・熱中性

 ダーウィンは、ケンブリッジ大学の学生時代には昆虫採集と鳥撃ち、狩猟、乗馬に凝っていました。ダーウィンは射撃の腕をみがき、狩猟の解禁日にはどんな重要な用件も放り出して狩りに行きました。牧師になるために大学に行ったのですが、ダーウィンはむしろ博物学に熱心で、小動物の採集や観察を好み、植物研究旅行に出かけたり、地質学の教授とウエールズへの徒歩旅行を行ない、岩石や化石を集めました。牧師の資格はとりましたが、博物学の研究に熱中していました。このような熱中性がダーウィンをダーウィンならしめたといえましょう。

 ダーウィンは自伝のなかでつぎのように述べています。

 「私が自分について判断できるかぎりでは、航海の間私は、一つにはただ研究の楽しみから、また一つには自然科学における事実の大群にわずかの新しい事実をつけ加えたいという強い欲求から、力のかぎり仕事をした。だが私にはまた、科学者の間でかなりの位置を占めたいという野心もあった」

 このように、ダーウィンは仕事熱心で野心家でもありました。

  従順・素直

 ダーウィンは当時の英国の青年としては当然であったかもしれませんが、じつによく父親の命令にしたがっています。ダーウィンの医学に対する拒否的な態度をみて父親は彼を牧師にしようとします。この提案にダーウィンはすなおに同意しました。19歳の時にケンブリッジ大学に入り直し、喜々として学生生活をはじめます。そして、父親の命令どおり牧師の資格をとり、22歳の時に卒業します。その卒業の年、ダーウィンがしぶしぶ父親の意思にしたがう運命的な状況があります。

 恩師の一人、植物学者のジョン・ヘンズロウはダーウィンの才能に早くから気づき、ダーウィンを植物研究のための族行に連れていったり、自宅に招きドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの著作を読ませたりして、ダーウィンをかわいがりました。彼は、南アメリカの海岸や太平洋の島々をまわるビーグル号に乗り組む博物学者としてダーウィンを推薦しました。

 しかし、ダーウィンをきちんとした仕事につけたいと思っていた父親は、ダーウィンがビーグル号に乗ることを許しませんでした。ダーウィンは父親に反抗することなど想像することさえできず、落胆してヘンズロウ教授に断りの手紙を書いています。もっとも、あとになって母方の叔父ウエッジウッド氏の説得で、ダーウィンはビーグル号に乗ることができました。

 「私は普通の若者より何らかの少しすぐれたものを持っていたにちがいないと思う。そうでなかったら、いまいったような私よりずっと年輩の高い学問的地位にある人たちと交われることは許されなかっただろう」

 ダーウィンは学生時代から著名な学者……ヘンズロウ教授、マッキントッシュ教授、ヒューウェル博士、地質学者ライエルなど……によくかわいがられました。これはダーウィンが自分自身でうぬぼれている彼の優秀さだけからではなく、きっとダーウィンがすなおで年長者によくしたがうためだったと考えることができます。

  臆病

 ダーウィンは16歳の時から兄と同じエジンバラ大学で医学の勉強をはじめました。しかし、エジンバラでダーウィンは医学よりも生物学や博物学により興味をもちはじめました。そして医学をだんだんきらうようになりました。とりわけ解剖学はいやでたまりませんでしたし、病院で患者の話を聞くとぞっとしました。ダーウィンはとくに手術見学をきらいました。患者の悲鳴、血、苦しみの状況はダーウィンにとっておそろしい光景でした。

 パニック障害の患者さんは幼少時より恐怖心が強いことがしばしば観察されています。ダーウィンも普通の青年以上に恐がり屋であったと考えられます。

 ダーウィンの臆病さを示すもう一つの逸話があります。老後のダーウィンは妻にピアノを弾いてもらい、それを聞いたり、あるいは小説を読んでもらったりして過ごしていました。そしてそれらの小説は、かならずハッピー・エンドとなる甘い物語に限られていたそうです。パニック障害の患者さんはTVのスリラーや殺人事件のニュースをきらってみないという話を筆者もよく聞きます。

  慎重

 ダーウィンは種に関する自分の理論の概要を33歳の時に完成し、35歳の時よりくわしく書き直し、当時、進化論はほぼ完成していました。しかし、当時(19世紀)はまだキリスト教全盛の時代です。この世界は、植物も動物もすべて神がつくり出したのだと信じられていました。人間は神によって神に型どってつくられたとする創造論が一世を風靡していました。ダーウィンの進化論はまるで神に反旗をひるがえすようなものであったのです。

 彼は創造論者にとってきわめて危険な思想を承認させるために、慎重を期しました。調査研究を念には念を入れて行ない、確固とした証拠によって裏づけられたものにしました。彼は進化論をうちたててから15年後、ようやくその理論を『種の起源』として出版したのです。ダーウィンは、自分にとって生涯をかけた仕事である「進化論」を、世間から批判されたり攻撃を受けたりすることをおそれ、発表するのを延ばしてきました。このような行動様式も、パニック障害にみられる「慎重」「臆病」といった性癖と関係していると考えられます。

  争いを好まない

 ダーウィンは、自分の進化論を真正面から世に問うて、聖職者や彼の説に反対する科学者たちと論争しようとはしませんでした。ダーウィンには、かれの『種の起源』を読んで、「これを思いつかなかったとは、私はなんとおおばかものであろう」と語った生物学者ヘンリー・ハクスリーという強力な守護者が現われました。ハクスリーは「ダーウィンのブルドッグ」とあだ名され、必要があるたびにダーウィンの進化論を擁護し、論争を展開しました。ダーウィン自身は自分の学説に反対する人たちと直接論争することは少なかったようです。

  善良

 ダーウィンが49歳の時、彼は自分の学説をそれよりもずっと前(約14年前)に確立していました。ところがそのとき、同じ博物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスがダーウィンと同じ真実をさぐりあてて、自分の発見を発表できるようダーウィンに力を貸してほしいと依頼してきました。ダーウィンは、自分が一生をかけてきた進化論の発見の名誉が自分より若い学者の手にわたる危機におそわれたのです。

 しかしダーウィンは、自分の目的を果たすためにウォレスの信頼を裏切り、おとしいれるわけにはいきませんでした。ダーウィン自身は、良心にしたがって、種の理論を完成した手柄をすべてウォレスにゆずるつもりでいました。ところが、地質学者のチャールズ・ライエルや植物学者のサー・ジョセフ・フッカーがそれをおしとどめ、ロンドンのリンネ学会で、ダーウィンとウォレスの連名で発表するようにとりはからいました。このような状況に、多くの科学者は興味をもちましたが、ダーウィンは真相を表沙汰にすることはありませんでした。ダーウィンは権力のあったライエルとフッカーと対立したくなかったので、彼らのいうままに行動しました。

ダーウィンと女性

  ダーウィンの母

 ダーウィンは母を幼少時に亡くし、母の想い出はほとんどなかったようです。ダーウィンの母は彼が8歳の時、さらに年下の妹キャサリンを残して、52歳で病死しています。ダーウィンは自伝のなかで母のことをつぎのように語っています。

 「母は1817年7月に死去した。……母の事といえば、臨終のベッドに黒いビロードのガウン、それから変わった造りの机、といったところで、ほかにさっぱり思い出せない」

 このようなダーウィンの母性欠如がその後の彼の生活に大さな陰を投げかけたことは、いままであまり問題にされていません。ダーウィンはうつ病やパニック障害患者にしばしばみられる早期離別を経験しているということができます。

  ダーウィンの妻

 ダーウィンは1836年、ビーグル号による5年の航海を終え帰国しました。帰国後は資料の整理やヘンズロウ教授や地質学者ライエルをはじめとする学者との交流でいそがしく時を過ごしていました。29歳になると父親ロバートが彼の将来を心配し、しきりと結婚をすすめるようになりました。彼は山積する仕事や独り身の自由さを考えると結婚をためらいました。しかし、ひとたび結婚を決意すると、迷うことなく、母方の従姉妹である幼なじみのエマ・ウエッジウッドに求婚したのです。

 それまでのダーウィンと彼女とのいきさつははっきり分かっていません。しかし、お互いに自分の心を相手に打ち明けた恋愛関係がそれまでにあったとは考えられません。それは、エマが書いたつぎのような手紙からわかります。

 「私は、いままで通りに友人関係が永久に続き、変わりそうもないと思っていたのに、本当にびっくりしました。その日私は、一日中まごまごするばかりで、幸せを感じることもできないほどでした」

 それでも彼女は、よろこんでダーウィンの唐突な求婚を受け入れたことを、叔母に手紙で述べています。

 ダーウィンは1838年11月11日にプロポーズし、翌年、1月29日に結婚しています。エマの生年はダーウィンより1年前の1808年です。”金のわらじを履いてでも捜せ”といわれる一つ年上の女房であったわけです。パニック障害の男性患者は年長の妻をもらうケースが多いというデータがあり、ダーウィンはこの点でもパニック障害患者の典型例ということができましょう。

 ダーウィンは、後年、子どもたちに宛てて、エマのことをつぎのように書いています。「お前たちはみんな、自分のお母さんをよく知っている。お前たちみんなにとって、いつもいつも、どんなによいお母さんであったことか。この人こそは私の最大のたまわりものであり、私は一生を通じてこの人から聞きたくないような言葉を一言でも聞いたことはなかったと、いい切ることができる。私にこの上なく温かい思いやりを失ったことはなく、わたしが病身のためや気分が悪くてしょっちゅう苦情ばかりいっていても、じつに辛抱強く我慢してくれた。お母さんは自分に身近な人に親切な行為をする機会を一度ものがしたことがなかったと、私は信じている。一つ一つの道徳的資質のどれをとってみても私より優れているこの人が、私の妻になることを同意してくれたのは、なんという幸運だっただろうか。この人は私の生涯を通じて、私の賢明な助言者であり、快活な慰安者であってくれた。この人がいなかったら私の生涯は、非常に長い期間、病身のために惨めなものとなってしまっただろう」

 女性が強くなった現代では、夫からこのように最高の賛辞を送られる奥さんはそう滅多にはいないでしょう。ダーウィンの妻、エマは妻のかがみであり、また、パニック障害患者の最高のべ夕ーハーフであったということができます。

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣