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オーストリア皇后エリザベート
(シッシー)の摂食障害 

医療法人 和楽会
理事長
貝谷久宣

 神経性無食欲症という病気をご存知でしょうか?はじめは軽い気持ちでダイエットをしているうちにそれに夢中になりすぎてしまって体重がひどく減少し、時には生命の危険に瀕することもある病気です。文明が進歩して、贅沢の時代、飽食の時代、そして、わがままが通る時代になり、この現代病は増えています。筆者は、ギュリシャはアドリア海とイオニア海の境に浮かぶコルフ島(図1)で開催された学会に出席し、オ−ストリア王国の皇后が愛したビラ"アキリオン"(図2)を訪れ、その皇后が今からおおよそ150年前にこの病気にかかっていた可能性を推測しました。

図1 図2

 オーストリア皇后エリザベートはミュンヘンに生まれました。バイエルン王国のマキシミリアン伯爵を父に、バイエルン王ルードビッヒ2世と腹違いの姉ルドルフを母にもち南バイエルンのポッセンホーヘン城で幸せな幼少時代を過ごしました。末っ子のかわいらしい彼女はシッシーと愛称されていました。バイエルン王ルードビッヒ2世には、ミュンヘンで精神医学を勉強する日本の留学生は特別な関心を寄せます。筆者もそのひとりでした。それはルードビッヒ2世が狂気の王といわれていたからです。ルードビッヒ2世は妄想の世界に生き、バイエルンに御伽噺に出てくるようなお城 − ノイシュバインシュタイン城やリンデアホーフ城を作り、結局は、ミュンヘンの南、シュタルンベルガー湖でミュンヘン大学精神科教授グッデンとともに謎の水死を遂げます。この話は、森鴎外の小説 "うたかたの記" のモチーフになっています。このような叔父を持つエリザベートは繊細な神経を持つとともに、絶世の美人でした。16歳になったある日、シッシーは偶然に会ったオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフに一目ぼれされてしまいました。ヨゼフ皇帝はシッシーの3歳年上の姉エリーナと婚約を発表する予定のパーティーで、突然、妹に求婚してしまいました。エリザベートの母方の伯母であり皇帝フランツ・ヨゼフの母ソフィアはこの縁組にしぶしぶ従いました。シッシーは16歳4ヶ月の若さで結婚します。これが彼女の不幸の始まりでした。自由奔放に育ったシッシーは、オーストリアの皇后としての堅苦しい教育を受け始めてまもなく、うつ状態になってしまいました。結婚祝賀パレードでウイーンの民衆に嬉しそうに手を振りはしましたが、実は深い抑うつ状態が彼女を襲っていました。結婚後のシッシーは息の詰まるような生活の連続でした。義母のソフィアは彼女に対して実の伯母としてよりも、皇帝の母として、また、厳しい姑として振舞いました。典型的な嫁いびりが始まったのです。シッシーは皇后としての厳しい生活を課され、自由を完全に奪われてしまいました。結婚して2年間のうちに二人の王女を設けはしましたが、シッシーは少しも幸せではありませんでした。彼女は憂うつな気分を晴らすために、姑の反対を押し切って長女のソフィアを連れてハンガリーに旅行に出かけてしまいました。そして、旅行中に2歳になるソフィアを不幸にも病気で亡くしてしまいました。姑ソフィアは彼女を罵り、二人の関係は決定的となってしまいました。シッシーは21歳で皇帝になるべく長男ルドルフを生みました。それを機に義母のソフィアは二人の孫を完全に奪いとりました。この出来事はシッシーに自責感と憤懣が混合した言いようのない悲しみをもたらしました。皇帝ヨゼフは世によくあるマザコン息子で、母から自分の妻をかばえず、政務や戦争に専念し、家庭を顧みることはありませんでした。当然、シッシーのこころは皇帝から遠ざかっていきました。そして現実逃避が始まったのです。それは姑と皇后としての義務で息の詰まる宮廷から逃れて旅行をすることでした。英国女王から貸し与えられた大型ヨットに乗って彼女はマデイラ島をはじめ、マジョルカ島、マルタ島などの地中海の島々を巡りました。このとき初めてコルフ島を訪れその美しさに魅了されました。この旅行で、シッシーはハイネをはじめとする文学作品にふれ、人間性を取り戻しました。その意味でこの旅行はうつ病の転地療養ともいえました。帰国してもなお子供に会わせてもらうこともできず夫のヨゼフは政務に忙しくてともに過ごしてくれることはなく、シッシーは再び病を得ました。結核が疑われたということですが、これは食思不振による極度の衰弱だったのでしょう。コルフ島への再訪問でその症状はすぐさま消えてしまいました。しかし、彼女の心はなお晴れたり曇ったりの状態が続きました。ゲーテやあシェイクスピアを読み、詩作に耽り、美しい景色の中を散策するコルフ島での療養が実を結び、シッシーは皇帝ヨゼフの待つオーストリアに帰国しました。元気になった彼女はまた昔のように光り輝くような美しさをとりもどしました。一時さめていた夫婦仲も回復しました。彼女は慈善事業に精を出すようになり、ヨーロパ中の人々のスターとなりました。23歳からの10年間の彼女はヨーロッパのトップレディーの名をほしいままにしていました。プロシャのビクトリア王女は、彼女のことを凄艶な美貌をもつ女きつねだと嫉妬混じりに評しました。この背景には彼女の美への並々ならぬ執念と努力がありました。彼女はダイエットに励み、牛乳、アイスクリーム、牡蠣、そしてミュンヘン製のビール以外は摂らず、美しいシルエットを保つことに憂き身をやつしました。当時、身長172cmで体重は50kgになるかならないかというスマートさだったといいます。美しさのためにはあらゆる努力をしました。イチゴをつぶして顔や首に塗りつけ、オリーブオイルで洗髪し、毎日3時間以上かけて櫛を入れました。体を水平に保つのが美容によいといわれ枕なしで横になり、子牛の生肉で内張りしたマスクをつけて睡眠をとりました。そして、1日も欠かさない体操と種々なスポーツに熱心でした。とりわけ、乗馬によるハンター競技は常にトップでした。

 シッシーは標準より21%も少ない体重です。肖像画からみる彼女はとても細い体をしています。そして、自分の美しさを追求する執着心は明らかに病的でした。神経性無食欲症の患者は、一般に、食物にたいして微に入り細に入りこだわり、自分の決めた通りの食事しかとりません。そして、ハイな気分が持続し、美容体操などをして徹底的に体を使います。また、芸術を好み、ロマンの世界にあこがれます。シッシーもこのような行動特性を示しました。彼女が神経性無食欲症であったことはほぼ間違いないでしょう。また、この摂食障害は気分障害とも関連していたことが考えられます。 

 彼女の死後いろいろなことがいわれています。宮廷と皇帝と民衆から、そしてこどもからも逃げ出した彼女は、(心身症の)治療、悲観と楽観、孤独のなかにあり、ひたすらに自分の美とシルエットと詩とそして乗馬に生き甲斐を求めたと。そして、自由を愛し、社会の束縛から逃れ、皇后の義務を果たさずその特典と尊厳だけを享受したと。また、自分が常に周囲の注意を惹いている人間でないと気が済まない人であったともいわれています。このような苦言に甘んじなければならなかった繊細なシッシーは、結局、不幸せな結婚により心身症にかかり、現実からの逃避をせざるを得なかったのでしょう。

Que sera sera VOL.29 2002 SUMMER


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