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精神科医が不要になった話

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣

 筆者は昭和34年の春、尾張藩の藩校を前身とする愛知県立明和高校に入学した。周囲の者がすべて秀才に見える劣等感で毎日が緊張の連続であった。そのなかで部活動だけがストレスと青春のエネルギーの発散ができる場であった。学内でも最も厳しいクラブのひとつである剣道部に筆者は入部した。来る日も来る日も日暮れまで和楽館で稽古に励んだ。稽古はとても苦しかったが、同級生や先輩との交わりはその苦しみを充分に打ち消すほど楽しいものであった。夏休みの合宿が終わる頃には、部員同士の心もお互いに通い合い、チームとしての団結心も固まってきていた。この団結心は剣道の稽古の苦しみを共有することによるのはもちろんであるが、合宿中に飯炊きにやってきた同級生の女子生徒を話題にし、お互いに心の内を暴露するほのかな興奮の間に間にも培われていった。結局、この団結心は、高校総合体育大会愛知県大会で優勝戦にまで勝ち進み、私立の強豪中京商業高校に相対するところまで盛り上がった。青春の3年間、苦楽を共にした剣道部の同級生は他の友人とはまた別格の存在である。今から5年程前、昭和37年度卒業の明和高校剣士が6人も東京で活躍していることがわかった。それ以来、われわれは夏と冬に毎年2回、新宿、渋谷、赤坂と場所を変え、集い語り合うようになった。

 口数が乏しく、少し変わり者で、秀才であったE剣士は、光学メーカーの特許の仕事を長年している。童顔のまま頭髪の薄くなったH剣士は、大手建設会社の技術系の部長で電気関係に詳しい。細かい気配りを常に絶やさないO剣士はパルプ会社の営業部長で全国を股にかけて活躍している。"潔く、さりげなく、奥ゆかしく"をモットーにし、熱意・誠意・根気で妻に対処していると豪語するゼネコンの土木部長をするのは謹厳実直のY副将。U大将は、一時、自動車部品メーカーのケンタッキー工場長を勤め、最近は関連会社の更生に助っ人として活躍する熱血漢である。筆者は威勢の良い先鋒(剣道は5人のチームの場合、先鋒、次峰、中堅、副将、大将の順で戦う)であった。3年前から夏の集いは、蓼科にある医療法人のセミナーハウスで行なっている。土曜日の夕方、各自がアルコールやつまみを持ち合い集まった。2日目はゴルフである。先日の集いは、名古屋で機械部品メーカーの社長をしている話題豊富な粋人A剣士も参加した。今日のテーマはそのときの、酒の肴となった話である。

 先日、U大将がA剣士の工場を見学に名古屋へ行った。彼らは高校だけでなく、中学も同級であった。その折、酒の酔いに任せたのか、今まで艶っぽい話を聞いたことのないU大将の口から彼ら二人と中学・高校と同級生であったT子さんの事がもれた。T子さんは小柄で、控えめで、やさしい女性であった。男子生徒の間で話題に上るような派手なところが全くない目立たない女子生徒であったと筆者は記憶している。U大将は中学・高校時代ずっとT子さんに思いを寄せていたということをA剣士に告白した。今の時代と異なって、当時は、女子生徒に馴れ馴れしく話すことのできる同級生はほんの一部に過ぎなかった。U大将もその例外にもれることはない硬派の剣道部主将であった。二人は中学時代同じクラスの学級委員をやったこともあり、お互いになんとなく好意を持ち合っていたことはうすうす気がついていたが、それ以上のことは何もなかった。高校に入ってからも挨拶をする程度だけであったという。T子さんが最近どうしているのか知りたいとU大将はA剣士に打ち明けた。端唄・三味線を趣味にする粋人であるA剣士は主将Uの命令、いや懇願に対し即座に反応した。

 同窓会名簿で見つけたT子さんにA剣士はある日の昼下がりに電話を入れた。電話口の向こうに、生気のない声で返事が戻ってきた。近況を聞いているうちにA剣士まで少しずつ元気を失っていった。T子さんは2歳年上の銀行マンと結婚し、一男二女をもうけ、幸せな生活を送ってきた。ところが更年期を過ぎる頃から体調が思わしくなく、疲れ易く、家事に精が出ず、不眠の日々が続いていた。テレビを見ても昔のように感動することはなく無味乾燥な毎日が続いていると訴えたのである。銀行から出向していた会社が倒産してしまい夫が失職し、双子の娘が相前後して出産に里帰りし、疲れがどっと出てしまい精神的にどうにもならなくなり、2ヶ月前から精神科クリニックにかかっているということをA剣士は知った。A剣士は、T子さんに慰みの言葉をかけ、最後にU大将のことを話した。U大将はその青春時代T子さんのことを常に想っており、それが彼の活動の源泉となっていたこと、そして最近T子さんに会いたいとしきりに思うようになっていることをA剣士は告げた。

 そのーヶ月後、A剣士は再びT子さんに電話を入れた。電話口に出たT子さんは先日とはうって変わって、元気な声で応答してきた。それは、一瞬、電話をかけ違えたかと錯覚させるほどであった。彼女はA剣士から電話をもらい、高校時代のことを振り返っている間に少しずつ元気を回復したという。T子さんはA剣士から電話をもらった後、高校の卒業アルバムを取り出し繰り返しながめた。そして、昔の出来事を思い出しているうちに憂鬱な気分がすっかり吹っ飛んでしまったという。最近また夫婦でゴルフコースをラウンドしているという。もちろん、あの電話以来、精神科クリニックの薬も飲まなくなったし、医者通いもぷっつりとやめてしまったということだった。T子さんは今も自分を想っていてくれる人がいると思ったら、心の底から力が湧き出てきたとA剣士に語った。そして、U大将に会うことはやめ、このまま青春の思い出を大切にとっておきたいと述べ、受話器を置いたということだった。あなたの心から鬱々とした雰囲気を取り除けないとき、青春時代に想ったり想ってくれた人を思い出してみましょう。はつらつとした明るい気分が蘇ってくることでしょう。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.30 2002 AUTUMN


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