不安のない生活―――(8)白隠の大往生
医療法人
和楽会 理事長 貝谷 久宣
白隠は臨済宗中興の祖と言われる禅僧である。この人物に関する書物を見ると若い頃にパニック障害を患った可能性が高い。簡単にその生涯をたどってみよう。白隠は、1685年沼津市原で生まれ、幼名を岩次郎と称した。幼少時は虚弱で自立歩行は3歳と遅かったが、頭のよい子で4歳には村の歌を300以上そらんじていた。6歳の時、ある仏教修行者に立派な坊主になると言われ、これが岩次郎と仏教との縁の初めである。白隠11歳の時、母に伴われてお寺に説教を聞きに行った時、八寒八熱諸地獄の話を聞いた。それから数日後、風呂に入っていて突然恐怖感に襲われ泣き出した。母がどうしたのか尋ねたところ、普通の湯でもこのように熱いのに、地獄の苦痛を考えたら恐ろしくてたまらないと訴えた。地獄の苦痛を免れるのは天神様を信仰するとよいと母から教えられ、以後、天神経を読み続けた。この出来事は白隠が極端に怖がり屋の不安体質であったことを示唆している。この病的な不安が神仏への持続的で強い帰依を促し、禅僧としての生涯を送らせることになる。岩次郎は15歳の年に、郷里 松蔭寺で出家得道し慧鶴(えかく)と称した。その後、各地の寺で修行し24歳時に越後高田の英厳寺にて暁の鐘の音を聞き悟った。この状況は次のように記されている。
手を拍して呵呵大笑。同伴驚いて顛狂せりとす。これより一切の人を見ること野馬陽炎の如し、自ら謂えらく、二三百年来、予が如く多打する者またまた稀なりと。是より慢幢―(おごり)山の如く聳え、憍心―(たかぶり)潮の如くに湧く。 |
この状態を周囲の者は気が違ったと思ったと述べられており、精神医学的には軽い躁状態が続いたと推定される。その年月に大聖寺の息道和尚が病気のため帰国したが、自分も病気になっていた。その病状は次のようなものであった。
心火逆上―激しい不安のめに頭に血が上る。
肺金焦枯―胸がざわざわして落ち着かず。
雙脚氷雪の底に浸すが如し―両足とも氷のように冷たい。
衣に、暖気なし―冷え性となっている
両耳渓声の間を行くが如し―ザーザーと耳鳴りがやまない。
肝胆常に怯弱―いつも気が弱った状態であった。
挙措恐悲多く、動に入るを得ず―何かしようにも恐怖が伴い行動に移れない(広場恐怖またはうつによる意気消沈)
陰壁のところに死坐す―人気のないところにひっそりと身を隠す
心神困倦し―神経が衰弱してしまっている
寐寤種々の境界を見る―悪夢をみて安眠できない
両腋常に汗を生ず―脇の下に汗をかく(精神性発汗)
両眼常に涙を帯ぶ―眼にはいつも涙がたまる(自律神経症状)
水分枯渇―口がすぐ乾く
広く名医を探ぐると雖も百薬寸効なし―鍼灸医をはじめ名医をことごとく訪ねたが治療効果が全く見られなかった。 |
これらは正にパニック発作、残遺症状、広場恐怖、うつ状態といってよかろう。当時このような病気が存在することを検証できる文献がある。桂州甫という医師が、白隠誕生の翌年1986年に「病名彙解」という本に「驚悸」としてパニック障害と考えられる症状を記している。
困り果てた白隠は、京都白河の山奥に住む仙人白幽子から伝授されたとする、内観療法と軟蘇の法を実行すること3年、26歳には病気はほぼ癒えた。この治療法は白隠が73歳の時に著した「夜船閑話(やせんかんな)」に記されている。この本は当時のベストセラーとなり、難病が治ったと感謝した読者が白隠を訪れ金品を置いていったという。
白隠が本当に大悟したのは42歳とされている。白隠がパニック障害の後遺症やうつ状態から完全に解き放たれ、精神的に本当に落ち着いたのはこの頃からであろう。それ故、40代半ばから著作が始まり、60代、70代でその執筆活動は最高潮になっている。白隠の残した多くの禅画は豪放磊落の感が強い。パニック障害者の根底にある小心さが原動力になった修行が、その人となりを変えた表現だと筆者は考える。
元旦に「老僧に84なってまだ剛健、目出たや、目出たや」と述べた年の暮れに、主治医が脈をとって「異常ありません」と言うと、白隠は「三日前に人の死を予知できないようでは名医ではないな」と大笑し、その4日後の暁に、眠りから覚め「吽(うん)」と大声で叫ぶなり昇天した。
白隠禅師のような偉人も若いころはパニック障害に悩み、晩年は多くの弟子と著作を残し、日本臨済禅の中興の祖となったことを考えると、現代人の我々にパニック障害が起こっても不思議ではないし、それを乗り越え大成できるのだという大きな道しるべになると考える。人生ケセラセラと考え不安を乗り越え、良くなるしかないのだ。
参考図書
紀野一義 名僧列伝(二)講談社学術文庫
沖本克己 泥と蓮 白隠禅師を読む 大法輪閣
高山峻 白隠禅師夜船閑話 大法輪閣
ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.62 2010 AUTUMN
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