不安のない生活―――(9)ある放浪者との出会い
医療法人
和楽会 理事長 貝谷 久宣
11月中旬から10日間、第4回四国遍路の旅に出かけた。今回は土佐久礼から伊予宇和まで約300qを歩いた。参拝した寺は三十七番岩本寺から四十三番明石寺までの六寺であった。今回のいちばんの難所は三十七番から足摺岬にある三十八番金剛福寺までの約80qであった。この道は食堂もレストランもほとんどないただトラックがいきかう国道である。その二日目は一日中雨の中を歩いた。
この遍路の旅は四国を右回りに一周し、88ヶ寺を参詣するのが順打ちである。山中に入る事が無ければ左手に海を見て歩くことが多い。太平洋の黒潮の波が打ち寄せる雄大な砂浜があったり、おもしろい形をした島々が点在したりして、天気さえ良ければそれなりに景色を楽しむことができる。もっともこれは、疲れが未だ軽く、膝や足がそれほど痛くない時である。しかし、雨でも降れば合羽をまとってただ黙々と歩くことになる。まさに修行である。また、結構険しい山道もあり、登りは何とか頑張れるが、下り坂になると膝が笑い痛み出す。時には激痛のために後ろ向きになって坂道を降りなければならないこともある。何のために歩くのかという考えが浮かぶのはこの時である。
道中ではいろいろな人に出会う。それは、仕事にマンネリ感を覚え、人生の区切りとして歩くベテランOLであったり、企業戦士の定年を機に自分を取り戻し、第2第3の人生に思いを込める初老の男性などなどである。中には一人息子の大学生を交通事故で突然亡くした中年夫婦が、喪の行動としてひたすら歩き、敬虔に祈る場にも遭遇する。菅笠も金剛杖も持たず、白装束の代わりにしゃれたスポーツシャツを着た後期高齢者と称する男性は、約35日で通し打ち(88か所を一度に巡礼する事)をすると話していた。現代版スタンプラリーで体を鍛えているといった観である。
今回の遍路旅も終りに近づいた8日目、40番観自在寺の宿坊を出て41番龍光寺を目指して国道56号線を北上していた。出発して3時間ほど経ったとき、道の反対側からこちらに向かって小さな四輪車を押しながら歩いてくる小柄な男性に出くわした。日焼けした顔で毛糸の帽子をかぶり、きちんと整えた口髭をたくわえ、粗末ではあるが身なりにむさくるしいところは全くなかった。日常生活に必要な身の回りの品と思われるもの一切を載せた車は整然とカバーが掛けられ、普通の放浪者とは一味違っていた。“こんにちは、よい天気ですね。逆打ちされているのですか?”と私はあいさつした。“いや、私は全国放浪の旅です。10年になります。”とその人はお遍路さんではないことを述べた。私は急にこの人に興味が湧き、写真撮影を依頼した。するとその男性は、“わたしは追われている身ですから、顔が写らなければよいですよ”と言ってくれた。後ろ姿の写真を撮り、礼を述べた。“10年もの間、経済はどうされているのですか?”と尋ねた。すると彼は穏やかな笑顔で、“自動販売機の釣銭などを探して生活しています。”と苦もない風に答えた。そして、私と同じ年齢だということで握手を交わし、少々お布施をして別れようとした。するとその男性は非常に遠慮深く、初めは受け取ろうとしなかった。しかし、無理押しにお金を渡すと、深々と頭を下げ、丁寧なお礼の言葉を返してくれた。私は精神科医として42年間生き、人の顔・立ち居振る舞いを見ることをなりわいとしてきた。この人はどう見ても悪人には見えない。どんな事情で世間から逃げ隠れしなければならないことがあったのか知る由はないが、きっと、運命のいたずらで罪を被らなければならないような羽目になり、このような人生航路をたどっている人に違いないと善意の解釈をした。それは、この男性の人相がなんとも明るくやさしい顔であったからだ。10年間の潜伏生活は苦しくはあったであろうが、彼の精神を昂揚させるものであったに違いない。そして、この人は、今は不安のない生活を日々送っているのだと思った。どのような境遇であっても幸不幸はそれぞれの人の心をどの方向に向けるかで決まるものだと感じた。
ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.63 2011 WINTER
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