不安のない生活―――(11)悠々自適の人たち

医療法人 和楽会 理事長　貝谷 久宣

　８月最後の日曜日、５時半に目が覚めた。前日、高野山大学の講演会に参加して疲れが出てしまい早く寝たせいである。以前参加したことのある北の丸公園のラジオ体操の会に行こうと急に思い立ち洗面を済ませるなりすぐ家を出た。外に出ると爽やかな快晴で朝の外気は天然クーラーの心地よさであった。自宅から内堀通りを横断し、千鳥ヶ淵の南側土手を朝日に向かって歩いた。堤の下の歩道をウォーキングのいでたちのお洒落な熟年夫婦が早足に歩いていた。そのカップルに遅れをとらまいと歩速を早めているとアッという間に国立近代美術館工芸館にたどりついた。この建物の前庭の階段を上がると北の丸公園である。朝陽に映えて緑が輝いていた。園内は日中より早朝の方が人の集まりが良い。杖を持った男女のグループ、熟年夫婦、ジョッギングする中年女性、犬の散歩の人などにぎやかである。池の橋を渡って公園の中央に位置する芝生の広場にたどりついた。時計は６時２０分である。ベンチに座り早足で歩いた汗をぬぐっていると自転車に乗った男性が目の前に停車した。前の荷台から包みの中の何かを取り出そうとした。ラジオならあのいつものお爺さんだなと想像していると案の定その人であった。腰が少し曲がり半袖のメリヤスのシャツを着た老人である。２、３の顔なじみが挨拶に来た。筆者も早速挨拶をして自己紹介をした。このラジオ体操の引っ張り役は、神楽坂に住む元サラリーマンの８６歳である。この老人の屈託のない表情を見ていると不安のない人生のたそがれを迎えられていることが手に取るようにわかる。

　さて、6時半である。ラジオ体操の歌が流れ始めた。

「ラジオ体操の歌」
　　　　　藤浦　洸　作詞
　　　　　藤山一郎　作曲

♪新しい朝が来た
　希望の朝だ
　喜びに胸を開け
　大空あおげ
　ラジオの声に
　健(すこ)やかな胸を
　この香る風に開けよ
　それ　一　二　三

♪新しい空のもと　輝く緑
　さわやかに手足伸ばせ
　土踏みしめよ
　ラジオとともに
　健やかな手足
　この広い土に伸ばせよ
　それ　一　二　三

　この曲は、昭和３１年に作られているのに、いまだに新鮮味がある。そして、いつ聞いても気味がよく、気持ちがなごむ。

　さて、池と雑木林に囲まれた広い芝生の上で第一ラジオ体操の始まりである。体をまっすぐにして立てない人、手足が十分に伸びない人、膝が十分に曲がらない人が多い。腰や膝の曲げ伸ばしの運動がみなさん特に難しい。それでもみんな一生懸命である。人生７０年、８０年の苦労が身体の節々にたまりこんなに硬くしているのという思いが巡った。私はこの参加者の中では若いほうであるので、まだ手足は十分に伸び、腰も膝もしっかり曲げることができた。第ーラジオ体操の終わりの深呼吸は朝の清々しい空気を実感することができた。第二ラジオ体操の６つ目の前屈して前後に腕を振ってその反動で胸をそらす運動をしたときに、目の前の真っ青の空に大きなケヤキの木が飛び込んできた。この大木の形の良さと姿の見事さに改めて感動した。第一ラジオ体操８番目の足を横に開きながら腕を上に伸ばす運動ではそろって大きな声で掛け声をかけた。体操が終わり、さて皆さん三三五五に家路に就くのだろうとおもった瞬間、バーミューダーズボンで粋なシャツを着たハンチングの男性が大声で叫んだ。「気を付け！敬礼！」で解散であった。元気の良い前期高齢者もまだまだ多い。毎朝の行事が彼の今の生きがいの一つなのかもしれないなと微笑んでしまった。

　神楽坂のおじいさんはラジオをまた前の荷台にしまい帰り支度をしている。またそのおじいさんに話しをきいた。神楽坂の家には庭があり、そこで家庭菜園をしていると。今年のナスやキュウリの収穫はほぼ終わったとのことであった。私も小学生の夏休みに、愛知県高蔵寺町の祖父母の山の家でナスやキュウリの苗を植えて毎日水をやり成長を楽しみにした思い出がある。そしてあの収穫の感悦は人間が生きる喜びそのもののように思う。人生の夕焼けの中で恬然とした生を楽しんでいるこの老人の生活におもいをやった。

　ラジオ体操と限らず体を動かすことは、不安・うつに非常に効果があることを最新の精神医学は示している。運動をすると脳由来神経成長因子が筋肉で作られ、それが脳に達して不安・うつ・呆けを予防したり、治したりすることがわかってきた。最近、書店で春木豊著「動きが心をつくる身体心理学への招待」（講談社現代新書）という本を見つけて読んだ。最近の赤ちゃん学でも、偶然の動き、不随意の動きから周囲の物体を感じ取り、それが脳をかたちつくっていくといわれている。人間いつまでも体を動かし、精神を活性化し、従容として死を迎えるのが理想だと考えた。

ケ　セラ　セラ＜こころの季刊誌＞
VOL.66 2011 AUTUMN