元国立環境研究所所長 大井 玄

 松沢病院痴呆病棟ではずいぶんいろんな人たちと仲良くなった。ひとつには私が彼らに同じく呆けてきているからであろう。

 認知能力とくに記憶力が低下することは、いわば世界とのつながりが切れる現象である。五分前に自分が言ったことやったことを忘れてしまうと、それをまだ憶えている人から注意され非難される羽目になる。たとえば、「お父さん、いまさっきご飯食べたばかりじゃないの」など言われても、食べた覚えがないから飯を食わせろと要求しているに過ぎない。

 私なぞ此の頃は一分前に調べたばかりのドイツ語単語を忘れていることがしばしばある。そういう時は、記憶が落ちているのに未だに「知的好奇心」があることを喜ぶべきか、好奇心があるのに世界につながることができないのを嘆くべきか、悲喜こもごものニュア
ンスの混じった複雑な感情に動かされる。

 病棟の住人はそれぞれ過去の記憶につながった世界に住んでいることが多い。ぼーっとしているその人と心を通わせるのには、その世界に入るためのパスワードが必要になる。女性では彼女の覚えている歌を唄うのがよいことがある。男性では軍隊時代のこと、得意とする仕事や趣味のことなどが相当する場合がある。

 あるとき新潟出身でインテリくさい風貌のひとがいた。細面で鼻が高く、柔和な眼差しであった。聞けば、新潟大学の事務に長年奉職していたそうで、同大学教授でもあった高野素十に俳句を見てもらったことがあるのだった。私がうろ覚えの一茶の句を言おうとしてつかえたりすると、すらすらと後に続けてくれてこちらを赤面させたりした。

は新聞にも入選した彼の句であった。

 別のとき、九十何歳かであるのに未だに四十台五十台の艶やかな女性たちが見舞いに来る元俳優が入っていた。正岡子規が活躍した四国松山の出身だというので「俳句は?」と聞くと、小学校時代から習っていたという。私の好きな万太郎の句を吟じて見せると、「うむ、そこのところがいい」などと注釈を入れてくれるのだった。ある日彼と俳句の話をした後医師の控え室に戻ると、新しい女性の研修医が来ていた。ぽっちゃりとした小柄な可愛い子だった。彼女を件の元俳優に紹介し、先刻話題にしたばかりの万太郎の句をもういちど朗ずると、老俳優の顔が輝いた。「ウン、それはおれの自信句だ」。九十過ぎで艶福家である秘訣を教わったのである。

 さて、子規の作品でまだ売れているものといえば「仰臥漫録」だろう。彼の死の直前までしたためられたこの病床日記は、若いときから繰り返し読んでいるが、終末期医療に携わる今は特別の想いが籠もるのである。私も最初はその健啖ぶりに驚いた。たとえば

朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干
昼 粥四椀、かつおの刺身一人前、南瓜一皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節、茄子一皿
この頃食いすぎて食後いつも吐きかえす

 などと書いた後、二時過ぎ牛乳一合ココア交ぜて、煎餅菓子パンなど十個ばかり、昼飯後梨二つ、夕飯後梨一つ

 と記してある。私の診る終末期の高齢者とは隔絶している。その日の彼の句は

彼は松山木屋町法界寺の泥鰌布施餓鬼を思い出していた。

 「死の瞬間」を書いたキュブラー・ロスの死に様が惨めであったと聞いてから特にその思いが強いのだが、昔の日本人の死に様は穏やかだった。たしかに子規は病状激しく苦痛が強いときには癇癪をしばしば起こしている。とくに気の利かない妹律にたいする悪口雑言は有名だ。しかし日記を通じて、死に対する恐怖や、自分の病気に対する怒りに相当する表現は全く見当たらない。

 終末期医療の醍醐味は、人生の最後をどう歩むのかを学ぶことができることにある。誰かが健康を「苦痛のなかの自由、情念の中の自由、我執の中の自由」と定義した。そうだとすれば、本当の健康人とは、高齢であり、死に近づいた人ではなかろうかと感ずることがある。子規についても同じ印象があるのである。たとえば、「草木国土悉皆成仏」と題して、

 西方浄土とすでにつながった自由の感覚が其処にある。

Que Sera Sera VOL.49 2007 SUMMER