元国立環境研究所所長 大井 玄

 昭和21年、父は疎開先の秋田市から東京に転勤して行った。敗戦の翌年である。混乱と飢えが続いており、母は子どもたちを食べさすため、当時景気の良かった農村で古着の行商を始めた。秋田市の北、約三里離れた村の農家を中継地とし、さらに数里の範囲で農家一軒一軒を訪れ商いをした。

 小学五年の僕は、週一度学校が終わると、田んぼ道を、その中継農家まで母を迎えに行った。米を一斗(約15キログラム)背負って家に帰るのだが、母の荷物はさらに重かった。夏、黙々として二人で歩いていると、無数の蛍が小川に沿って光のアークを描いていた。農薬散布まえの時代、田畑にはバッタ、蛙、ドジョウ、小鮒などが生命を謳歌していた。

 夜9時頃家に着くと、小学一年の弟タアちゃんがご飯を炊き、味噌汁を作り、おひたしなども添えて待っていた。一番下の三歳の弟は、もう眠っていることもしばしばだった。

 タアちゃんは目がくりくりしていて、頭がよいだけでなく、思いやりのある優しい子どもで、しかも正義感が強かった。高校時代の彼の友人から、自分は医者になって無医村に行くと言っていた、と聞いた。

 落第を繰り返した私が医学部を卒業するときには、タアちゃんは二年下のクラスにいた。私には研究者の才能はなく、内科医局に一年もいないで、フルブライト奨学金を貰い、臨床訓練を受けにアメリカに渡った。

 1960年代後半、私の在米中は世界の各地が騒然とした時期だった。中国は文化大革命、アメリカではヴェトナム反戦運動、学園紛争はフランス、日本でも起こっていた。大学が荒れているから日本に帰るなという友人の便りが来たころ、母が狭心症発作を頻発しているという知らせが届いた。タアちゃんが、東大病院新病棟開設に反対の坐り込みをして逮捕されたのを母は心配した。医師、ナース、学生も一緒に捕まったが、彼だけは紛争時の行動が医学部教授を入院させるなど悪質だという理由で、巣鴨の拘置所に半年以上も勾留された。

 私が帰国し東京都立衛生研究所に勤めるころ、タアちゃんも出所してきた。挨拶状も貰ったが、字があまりにガリ版風にキチンとしているので吃驚した。私が留学するころ、彼は左翼政党に入党したが、母から、「お前のことが公になるとアメリカに行く兄に迷惑がかかる。大人しくしていなさい」と命じられた。ガリ版きりに没頭した所以である。

 彼はやがて地域医療に専念する。練馬区に医療生協の診療所を始めた。大学の医局からの応援は言うまでもなく皆無。そこは東京都内では医療過疎ともいわれた場所で、一年中、毎日文字どおり24時間当直を勤め、急患には時間を問わず応えた。したがって診療所開設以来、四半世紀無休と言ってよかった。「僕は外国旅行どころか、北海道にも沖縄にも行ったことがない」と嘆くのを誰かから聞いたが、私には一切そんな弱音を吐いたことがない。唯一の息抜きは、医師会の仲間と年末に二泊三日で行く囲碁旅行だけだった。

 私は三年前から彼の診療所の往診を手伝っていたが、在宅の看取りを推進したい気持ちがあった。昨年春、彼は急に痩せてきた。毎夜38〜39度台の発熱があり、やがて縦隔(肺と肺の間)にがんの転移が見つかった。放射線療法で一時軽快したが、そのうちまた熱が出るようになり右の腎臓の上に腫瘍が見つかった。化学療法を一回やったが、白血球赤血球も減り、積極的治療を断念した。

 この夏、私がカバーしていた彼の外来を、自分が再開したいと言うので喜んで応じた。しかし秋、貧血が進み、咳が出始め、10月末には診療する体力が尽きた。11月初め彼の家に見舞うと、咳が持続して収まらない。気管にも転移があるのだった。その翌日東大病院に呼吸苦のため再入院。数日後、呼吸の乱れが現れたため、夜病院に見舞った。彼は酸素を吸いながらベッドに座っており、息子がその背中をさすっていた。苦しい息の下で言うことは判りづらかったが、「イワンの馬鹿」という言葉が彼の地域医療に込めた想いを伝えてくれたと思った。

 亡くなった翌日、私は病理解剖に立会い、その足で講演する関西の学会に向かった。

 そこでの特別公演で、能と笛の演奏があった。能管の喩えようなく鋭い響きは、この世とあの世の境を切り裂く力がある。私は、涙でかすむ先に、はっきりとタアちゃんの姿を見た。

Que Sera Sera VOL.55 2009 WINTER