東京大学名誉教授 大井 玄

 紙の文化、水の文化という排便処理の違いがある。日本は前者に、東南アジア・インドなどは後者に属する。

 終戦前後の頃、便所の紙さえ払底し、私たちは新聞紙を切って用便後に使っていた。いや、紙は貴重品であった。洟をかむのには、インクの質が悪く指先がすぐ黒く汚れる新聞紙を使った。鼻を拭いたあと、鼻孔の下、小鼻から頬にかけて黒い色素がついていたから、そうした人は一目で判った。後年カネミ油症事件が起こったとき、被害者は、鼻の両脇に黒いにきび(クロール・アクネ)ができたので、その皮膚症状に「新聞紙で鼻をかんだような」という形容がなされた。当然、そう表現した人も新聞紙で鼻を拭いたたぐいに違いない。

 国際保健に関るようになると、衛生事情を調べるためアジアの国々を訪れる用事が増えた。観光客が泊まる近代的ホテルでは日本や欧米並みにトイレットペーパーが用意されているが、現地調査でそんな贅沢な施設を利用することは少ない。東南アジアの農村は用便後水で清める。対するに伝統的和式大便器は、しゃがんで用を足す様式であり、便は糞壷に落ちていき、後に汲み取られ肥料として利用された。しかしここでも紙を使う点では変わりない。

 東南アジア農村部で良くお目にかかったのは、大便器に相当して溝があり、その両脇に足を乗せるレンガがあり、用便後ひしゃくで傍の水甕から水で流すものだった。溝は緩い角度があり便は流れていく工夫がされている。

 問題は、排便後、水を使って直接手で局所を清めることだった。周知のとおり、インド人は一般に左手を不浄の用に使い、飯を食べるなど清浄なる目的には右手を用いる。局所も完全に水で清めるならば、紙よりも清潔にできる。しかし意地の悪いイギリス人が実測した報告によれば、インドでは充分清潔にするに必要な水量の約三分の一から半分ぐらいしか使われていない。

 実際困ったのは、手を使う行為に心理的抵抗を強く感じたことである。細菌学的理屈の上では手を良く洗えば、再び清潔になるのは理解できる。しかし、便を直接手で触れる行為は気持のうえで受け入れることができないのだった。幼い時近所の幼稚園に通い始めたが、そこの便所が気持わるくて家に駆け戻ってくる途中、粗相をしてしまったことを思い出した。年のちかい従兄弟には散々からかわれた。感覚的には、当時から少しも成長していないのを確認したのである。

 排便をどう行うかの問題は、終末期医療においては食べることとほとんど同じくらい重要だ。特に看取りを在宅で行う場合には、本人の意向をかなえる努力が必要になる。

 毎晩ちびるのに、おしめを頑固に拒否して越中ふんどしをやめない90代の男性もおられる。お祖父さんは侍であって、明治維新後に切腹したと聞いた。歩くのもおぼつかないが、ベッドの脇の室内便器を使っている。こちらも武士の情けという詞が浮かび、介護の奥さんと娘さんに、因果を含める。彼の強情は、日本男児として当然至極だというような弁護である。

 尿失禁は、解剖学的構造から女性のほうが当然多く、おむつをしている人も多いが、排便は這ってでも便所にまで辿りつくのが生きがいのように見える方もいる。

 どんなに体力が落ちても、するべきところで排便するという衝動は、身分の貴賎に関らずある。

 明治天皇は糖尿病とその合併症として慢性腎炎を患われたが、その死に近くなっても、褥の中で便器を使うことを厭い争われた。典侍柳原愛子と主馬頭子爵藤波言忠が臣従の道を越えるような苦諫を行ったので、天皇は抵抗の力を失って褥中で排便したと記録されている。

 詩人萩原朔太郎の娘葉子によれば、彼もしかるべき排便の仕方に固執している。「眼を覚ますと声にもならない声で父は苦しそうに顔をしかめて、便意を告げた。シーツには布を置いてあり、そこへするようにと祖母や看護婦はいうのだが、お手洗いに行かせてくれと口の動きで伝える。しかたなく二人がかりで両側から枯れ木よりも細い父の身体を抱きかかえ、やっとのことで連れて行っても、神経質な父は用を足さないで帰り、またすぐ便意を告げるのである。

 ここへしなくてはだめですと何度も叱るようにいうと、父は力なく首を振り宙をまさぐるような手つきをして、最後の願いだという気持を現す。そして続けて三度目の時は、両側から支えられた足は宙に浮き、まったく力を失い、ついに用を足さずにがっくりと布団に寝かされ、呼吸は早く乱れあえいでいた」

 成長を詩に表すのは喜びである。排便の喜びは詩に捉えがたい。

Que Sera Sera VOL.59 2010 WINTER