東京大学名誉教授 大井 玄

 人生の最終コースを歩むとき生じる自然な感情は、世界とのつながりが絶たれていくという悲哀であり不安だろう。もちろん、苦痛や束縛から解放されるというさばさばした感覚が混じっていても不思議ではない。老いには両義的感覚が伴なう。

 言語的動物であるヒトにとって、ことばは世界との強いつながりだ。とくにアメリカのように、言語表現が生きていくために必須といってもよい文化では、ことばを失うことにより生じる不安はおおきい。

 在宅のみとりを勧める老医が見る世界なんぞ、さぞかし陰陰滅滅たるものと思う向きが一般だろう。

 しかし誕生・成長・老化・死というすべての生物のたどる経過をどう受け止めるかは、その視点と覚悟により変わってくる。溜息もでるが笑いも生まれる。

 私も百歳を超える女性を診ているが、彼女の可愛さといったらちょっと類を見ない。とても礼儀正しい方で往診に伺うといつも正座して待っていてくださる。診察が終わるとお茶をご馳走になる。「で、先生は今までずっとお元気でいらして」と心遣いされる。「は、お蔭さまで何とかやってまいりました」と答える。もう一、二分すると「先生は今までずっとお元気でいらして」。こちらも同様に答える。この受け答えが三回も繰り返されると、彼女の記憶は三分も続かないのが納得いこう。

 ある頃から夜になると、ベッドから八十近い娘にむかって「かどの炭屋に赤ちゃんを置いてきたから連れてきてくれ」と命令するようになった。自分も炭屋の娘である。「お母さんそんなことないでしょう」と抗議しても構わずに掛け布団を上にひろげて早く早くと催促する。娘は仕方なく自分が母の脇に入り込むと、母は安心してすやすや眠るのだった。

 おなじ行動が頻発するようになったので、娘は一計を案じ、ブロンドの眠り人形を母に与えた。彼女はとても喜び、起きているときはそれを膝に乗せてあやし、寝るときには枕を並べるようになった。以来、赤ん坊を連れて来いという要求はなくなった。私が「この赤ちゃん可愛いですね、名前は何ですか」と尋ねると、「何でしたっけ、さっきまで憶えていたんですけど」とおっしやった。

 またある日、急患が入ったため大幅に遅れて伺うと寝ておられた。私が挨拶すると慌てて起き上がり身つくろいして、「昨夜はぜんぜん眠られなかったものですから、ついうとうとしていました」。明治の日本橋生まれだから、医者に寝姿を見られるのは無作法と思われたのだろう。しかしそのあと何時ものとおり「ご飯は召し上がられますか」、「お通じはございますか」、「痛いところはございませんか」など様子を聞いてから、「夜はよくお休みですか」とたずねると、「ええ、夜はぐっすり眠ります」とおっしゃった。つまり、先ほどの言い訳は、自分の体面を護るための作り話であった。

 その紡いでいる「意味の世界」において、彼女はあるときは客人に気を配る礼儀正しい社会人であり、あるときには若い母親か幼い娘である。作り話は、「意味の世界」の価値意識を護る方向になされるのを常とする。

 人は他者とのつながりの中に自分を見出す。かつての日本には「家」の制度があった。中世初期に始まるこの制度は、戦乱と飢餓に充ちた厳しい社会状況での生存を計ったものだが、老人扶養にも役立った。現在、地域が老人施設などでその世話を見る形もあるが、不十分である。代々の自民党政府は、社会の安全保障としての医療・介護・福祉に金を費やすことを惜しんできた。結果が独居老人や孤独死の増加だ。

 認知能力が衰えているものの練馬で一人住むその八十代の女性には、息子がいて千葉で働き住んでいた。玄関から障子を空けると直ぐの部屋にはコタツ兼用の茶舞台があり、新聞が置かれているのが珍しかった。しかし医師が処方する薬は、毎日服用できるよう曜日ごとに分けて入れてあるのに、服んだ形跡はあまりない。食事についてたずねると、夕飯だけは日々息子が持ってきてくれるという話をした。千葉から練馬まで晩御飯を届けに来るはずはない。

 彼女の作り話には、その「意味の世界」がこうあって欲しいという「本音」が隠れているのだった。

Que Sera Sera VOL.60 2010 SPRING