東京大学名誉教授 大井 玄
五月初め。私たちの飛行機が着陸したパロ空港は滑走路が延び、建物が大きくなっていたが、街の佇まいや赤い屋根と白壁の家が山腹に点在する風景は昔のままだった。パロゾン(城)は白雪姫と小人たちの住む小さな家のように可愛い。
ブータンに来ると、この地で客死した西岡京治を思わざるを得ない。彼は二十八年かけてこの国の農業を近代化し、ダショーという貴族の称号を外国人として初めてもらった。一般人の着用する白色ではなく、赤いスカーフをまとい、長剣の帯刀を許された。
彼の仕事のやり方の特色は、この地域の生活文化、人々の心情と価値観、行動傾向をよく観察し、理解したうえで、人々が自力で生きる術を教えようと努力したことだろう。社会人類学的アプローチといえる。ただ、観察し記載する学者ではなく、そこの人たちに交わり、自主的に行動するよう働きかけ、彼らの生活自体が変わるのを待った。
西岡の社会改良家としての真骨頂が典型的に発揮されたのは、国王に委嘱された、中央ブータン焼畑地帯の五年間にわたる開発だった。そこシェムガンは、ゾウやトラが住む密林であり、同国人さえ行きたがらない最貧地域。焼畑農業は不安定で、良い年は収量が多いが、少し天候不順があると、一年のうち三ヶ月くらいは飢餓に悩む。毎年焼畑をするためには、村ごと移住しなければならない。小学校はあるが食べるものがなくなると子どもたちを学校にやれない。だから年を食った小学二・三年生が沢山いた。
前国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクは、下情に通じた賢君だった。国家予算の二十パーセントを王自身の重視する.プロジェクトに重点的に振り向け、毎年一億円くらいを西岡に自由に使わせた。彼は全責任を負うとともに、それまで考えてきたこと、実験的手法をすべてそこで吐き出して仕事を進めることができた。
西岡は、まず助手と一緒に村々に行ってミーティングをやり、村人を説得した。焼畑は生活が良くなる機会がないこと、密林の木は木材として高く売れること、水田耕作の方が生活が安定すること、等等。ミーティングは五年間に約八百回開かれた。住民たちによる露天掘りで三百五十本ほどの水路を作り、現地人の技術で、十七本のつり橋を作った。中央から技術者が行くと金がかかるからだ。ただ籐の代わりにワイヤロープを使った。水田は七百ヘクタールに広がった。よく働くミタンウシの牡をアッサム奥地から密輸入し、牛乳のよく出る交配種を千頭ほど作った。
定住すると、新しい道路も必要になる。川岸に沿い、ウマが荷をかついで雨が降ってもとおれるような道を二百キロメートル近く作った。年を喰った生徒たちに、パロの西岡農場でトレーニングを受けさせ、トラクターやブルドーザーのオペレーターを速成し、種や薬を配り、指導もする農業普及員をも養成した。彼らは自分の故郷で働くのによろこびと誇りを感じたのだ。プロジェクトは大成功だった。
このような体験を通じて、彼は、農業開発援助でも現場の文化・技術を重視し、サイズにあった開発を行なうべきとの確固とした考えを築く。調査をコンサルティング会社に任せて大きなプロジェクトをつくり消化するやり方は、金がかかってごく能率が悪いという。そのコンサルティング機構の最たるものが国連開発計画(UNDP)だ、と厳しかった。百万ドルの援助があったら、九十万ドルは調査と評価のチームや少数の外交官、専門家に使われてしまい、実際の仕事に使われるのは残りの十万ドルしかないではないか。
西岡の指導が最初に為されたパロでは、水田に植えられた稲が、日本の水田のように、縦横整然とした等間隔で生育していた。尾黒鶴がチベット高原から飛来し越冬する、奥地のフォブジカでは彼の指導がゆきわたっていないのだろう、稲はぐじゃぐじゃな植え方のままだった。
一九九二年春、彼は敗血症であっけなく死ぬ。彼の骨は一部が川に撒かれ、一部は小麦粉と混ぜられ小さなストゥーパ(塔)として山の背に並べられた。そこにはありがたいお経を書いた細長い経文旗が、何本も、尾根を登るようにして立てられた。その旗を眺めながら、もう会うことのできぬ笑顔の西岡さんを想い、中原中也の詩の一連を思い出した。
風にはためく何かを求めて、彼は逝ってしまった。
Que Sera Sera VOL.61
2010 SUMMER
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