東京大学名誉教授 大井 玄

 往診する患者さんの中には、独居の女性も増えてきた。彼女たちの共通点は、九十歳代になり、過去の病も現在の故障も沢山ありながら、頭脳明晰であることだ。同時に俳句や和歌の趣味があるせいか、いまだに若々しい感性と情動を保っておられるように見える。

 香葉(かしょう)という俳号を持つ方は、私がここ三年往診をしているが、永年めまいに悩まされ、聴力も衰えてきているばかりか、何年か前脳梗塞で左半身の軽度麻痺をおこしたり、高血圧の結果心不全になったり、多彩な病歴がある。四足杖でゆっくりゆっくり気を付けながら歩くが、ふとしたことで倒れる。ベッドと仏壇の前の勤行でほとんどの時間が過ぎる。

 徐々に衰える気力を振り起してぽつりぽつりと旬作されるので、彼女のカルテには、いつの間にか、歳時記風に句がちりばめられる結果になった。

 二年前にがんで死んだ私の弟は、四半世紀前、練馬に医療生協の小さな診療所を開設した。彼女はボランティアとして掃除の手伝いに行き、エレベーターで詠んだのがこの句というから恐れ入る。

 往診の医師も何人か替わり、彼女の子供たちも胃がんや肺がんになったり、心筋梗塞を起こしたり、だんだん寂しさが増していく。外界との接触は窓の外の風景と、優しいヘルパーさんが車いすで連れて行ってくれる近所に限られるようになった。さいわい桜並木の連なる石神井川が、徒歩なら五分くらいのところを蛇行している。

 いつの間にかものを食べるごとに胸につかえる感じが出てきた。箸を置き、間を置いてから食事を再開できるときもあるが、断念するときもある。悪いできものがあると良くないからと食道と胃の内視鏡を勧めても、もうそういうことをするのは億劫だと謝絶された。

 夏は、冬同様、老人にとって怖い季節である。それは、齢を加えるにつれ暑さに鈍感になるため、いつの間にか脱水状態になり、熱中症も起こしやすいからだ。暑いときに冷房をつけないお年寄りはざらにいる。窓を閉め切ったままで寝ておられる方には、さすがに驚いて窓を開けてもらった。数年前フランスに熱波が襲ったとき、万を超す熱中症の死者が出たが、ほとんどが高齢者だった。往診医は月に二回の往診では目が届かないから、その間に電話をかけて、水分を補給するよう督励しなければならない。だが、電話の向こうのニュースは淋しいものが多い。

 やっと暑さが和らいだと思っても、冷房を効かしたためか、風邪をひいたりする。

 無常迅速。この言葉の意味を実感させるのは、年の功である。齢とともに時間のすぎるのが速くなることには、寂蓼と恩寵の両義が込められている。わたしたちの脳は、刻々の「環境世界」を過去の経験と記憶から作っている。時間が速まるのは、作る速度が年齢とともに「遅く」なっていくからに他ならない。その速度が限界を超えて遅くなると、人は「ぼけ」と呼ばれるようになる。しかし「ぼけ」は社会で人工的に定められた時間から切り離された分、「自由人」になったと考えて良い。

 いつの間にか秋が過ぎ、その年の年輪ができあがりそうになっている。彼女にとって命のつながりは、孫、曾孫と仏壇の中の仏様とご先祖様である。

 医者に勧められて飲むようになったリキュールも悪くない。本物の酒飲みから見ると可愛らしいが、酒は酒だ。

 孫が来てはたらいた狼籍の後は、親しい友人となった永年のヘルパーさんが修復してくれる。もう今年も終わりに近い。

 一年がめぐり、また新しい一年が始まる。

 この句に、悲哀とともにほとんど表現を超える感謝の念が込められているのを感じる人は、やはり恩寵を受けた人である。

Que Sera Sera VOL.63 2011 WINTER