東京大学名誉教授 大井 玄

 1990年代、私は東大医学部に勤めていた。また、社会医学に臨床経験が役立つという理由で、虎の門病院で週一回内科外来の患者さんを診ていた。加藤さんは高血圧の治療にみえたのだが、彼の兄が東大駒場の教養学部で私の同級生で、陰では弟のアルコール中毒を見張ってくれ、と頼まれていた。

 実はアル中の人は身近にもいて、私の兄がそうだった。そもそも飲酒癖は家系的なもので、母は私たちの学生時代から酔っぱらうのを許していてくれていた。そのせいもあり、私も酒による失敗は数えきれないほどやってきていた。アル中にならなかったのは奇跡である。

 加藤さんは穏やかにいつも微笑んでいる人で、大企業の課長だったから、私は勤めの仕事はきちんと果たしているのだろうと想像し、アルコールの問題について詳しく尋ねることをしなかった。ただ彼は左手首にその日が断酒してから何日目であるのかを記入した腕輪をはめていて、私は「へぇもう二年以上飲んでおられないのですね」などと感心した覚えがある。

 そのうちに彼は僧侶のように丸坊主になって外来に現れた。座禅をしているのだそうである。私とて煩悩具足の凡夫であり、己のだらしなさに愛想が尽きているところだったから、参禅したい意を伝えた。彼が連れて行ってくれたのが、霞町の近くの曹洞宗永平寺別院だった。仏門では、一日でも早く入門したものが先輩になり、社会的地位や年齢は一切問わない。かくて加藤さんは、年齢が七歳若いとはいえ私の兄弟子になった。

 彼は私の質問には親切に答えてくれたが、問われること以外は干渉しなかった。その温厚さ、優しさは素面のときの私の兄を思わせた。

 兄は気の弱い性質だった。昭和19年、秋田市に一家が疎開してそこの名門中学に編入学したが、一年経たずに県南の、しかも一時間も汽車に乗って通学する農業学校に、父によって転校させられた。敗戦直後、食糧事情が窮迫し疎開者に農家は冷たかった。私たちはいつも飢えていた。空腹のあまり父は早とちりしたのだ、これからは農業立国でなければならないのだと。東京にいたころの兄は、「あのどん百姓」などと農家出身の同級生を馬鹿にしていたから、この進路変更は、さぞ嫌だったろう。しかし親父の意向に逆らうことはできなかった。

 朝五時半には家を出て秋田駅から通学列車に乗る兄のため、毎朝母は四時には起きて弁当と朝食を用意した。しかし兄は辛抱できなくなった。不思議なことに、まるで磁石が鉄片を吸いよせるように、そういう子供を、やくざっぽい不良が誘惑する。警察沙汰になり、教育者の面目を失った父は工業学校校長の職を辞め、長姉と兄を連れて東京にもどっていった。兄のことを思いだすごとに、中原中也の詩が念頭に浮かぶ。

 落ち着かせようと、兄は早く結婚させられたが、素面のときはなにも主張できない性格のため、結局、酒に逃げ道を探すより手はなかった。学歴もないまま彼はタクシーの運転手になる。友人たちはその気の弱さ、優しさを愛したが、酔っぱらうと喧嘩っ早くなるのには辟易もした。心配するばかりの両親は中年でカトリックに改宗する。私がボストンに二度目の留学生活を送っている間に兄は自殺した。母は死後すぐ彼に洗礼を授けてもらい、天国の門をかろうじて開けるのに成功した。

 私が加藤さんに感じたのも、兄と同様な優しさと気の弱さだったのだろう。しかし加藤さんは、職場のストレスにも、アルコールの誘惑にも耐えていた。毎週月曜夕には参禅し、そのあと息子さんと食事するのが楽しみだと口元を緩めた。

 あまり真面目に座禅に加わらない私を励ますためだろう、奥さんと二人で座扶(座禅用座布団)を作ってくれた(それは市販の座扶よりも柔らかく、今でも時々使っている)。彼の精進は、一歩足を踏み外すと奈落に転落しかねない道を黙々と歩む一人の修行僧を思わせた。

 彼が私の外来に来るのはひと月に一回だったが、四年近くきちんと受診していたので私は安心し始めた。ある時三か月ばかり姿を見せず、私は胸騒ぎがしたが、次に彼が訪れて来たとき、その予感が当たっていたのが判った。彼はその間久里浜のアルコール中毒者の治療センターにいたのだった。実は奥さんのお父さんが亡くなり、通夜の席で勧められて一口酒を飲んだら止まらなくなった。崖を転げ落ちたのだった。

 その後、一年もしないで私は東大を定年退職しつくばの国立環境研究所に移ったため、彼の消息をその兄から聞かされたのは十年近く経ってからだった。彼はすでに鬼籍に入っていた。そのアルコールに魅入られる傾向は、彼が会社を定年退職するまで残っていた。退職して一週間後、友人同僚が退職祝いをしてくれたが、彼はそこで痛飲し、帰宅した晩に急死したという。

 釈尊の言葉を集めたとされるスッタニパーダ(68)を佐々木閑氏は次のように訳している。

 加藤さんは努力したが失敗した。アル中の誹りはまぬかれまい。私がアル中にならなかったのは、兄や加藤さんの姿を見て、かろうじて自制できたからである。

 とすれば、彼らは私の中に生きているのだ。釈尊の言葉を目標に生きる努力を続けることは、彼らも私と歩むことであろう。

Que Sera Sera VOL.64 2011 SPRING