上杉謙信の寺(ケセラセラvol.91)
医療法人和楽会 理事長 貝谷久宣
先日、NHK BSプレミアム番組「偉人たちの健康診断」の制作プロデューサーから上杉謙信を取り上げるのでマインドフルネスの解説をして欲しいという連絡があった。制作担当者は、戦国武将最強と言われた上杉謙信の強さの秘密は瞑想にあると推測したからである。
謙信は1530年に越後の守護代・長尾為景の末子として春日山城で誕生した。幼名虎千代は6歳に城下の林泉寺・天室光育和尚に預けられ、教育を受けた。13歳で元服し景虎となり、越後の国栃尾城の主となった。その翌年には初陣を勝利で飾り、以後、合戦には常勝で、21歳の時越後の国を統一した。26歳の時、一族の反乱にあい、自己嫌悪に陥り、仏門に入るため高野山に向け出奔してしまった。その理由は、常に、正論を主張する謙信は戦国の世知辛い家来たちをまとめるだけの世間常識に疎かった為だったのだろう。また、上杉謙信はひらめきタイプの人間で、理詰めで家臣を説得するのが苦手であったのではないかと思われる。6歳から7年間の禅寺での修行が謙信を直截的で清廉潔白な人間としたのであろう。
しかし、結局、謙信は家臣に連れ戻され元のさやに納まった。それから、川中島の戦いは合計5度におよび、戦国武将として死ぬまで大活躍をした。
筆者は謙信が修行をした林泉寺で坐禅をしたくなり、笹川元祥和尚に電話で訪問の許しを得て、平成29年10月28日に山門をくぐった。笹川老師は筆者より2歳年長の気さくな方で、気持ちよく迎えてくださり、清楚な方丈に招き入れられた。老師は心底謙信にほれ込んでいる様子で、この戦国の名将の逸話をいくつかお話しくださった。
・謙信の合戦での強さは曹洞宗ではあったが、坐禅だけでなく公案禅で鍛えられたことにもよる
・馬術に優れていたが、落馬してから跛行するようになった
・毎日槍突きの練習を欠かさず、細身であったー宝物殿にある謙信の鎧は意外に細い
・死因は脳卒中とされているが、酒豪であり、亡くなるかなり前から手が震えていたので酒精中毒の可能性がある…などなど。
出奔から連れ戻されて春日山城に戻った27歳の頃から林泉寺に参禅し、修行にいそしんだ。33歳の時、第7世天室光育和尚が遷化され、その後は8世益翁宋謙老師の会下に参禅し、粉骨砕身し「第一義」の意味を看破して開悟した。これを記念する意味で「第一義」と揮毫した扁額を寺門に奉納した。41歳になり不識庵謙信と名乗り、44歳になり、法印大和尚の位に任じられ剃髪した。
笹川老師との話が弾み、坐禅はまたの機会となった。そして、その後の老師からの玉簡で上杉謙信の詠んだ歌を教えられた。
朝起きて 物の交わらぬ心こそ 心ぞ心ほんの心ぞ
坐禅をするのは昔からやはり早朝起床直後が一番ということである。