不安のない生活(23)ミュンヘンの思い出 その1
医療法人 和楽会 理事長 貝谷久宣
オリンピックが終わった年(1972年)の秋から2年間留学生活をミュンヘンで私は送りました。それは私の人生の中でも最も輝いていたひと時でした。期待と緊張で胸をときめかしてマックス・プランク精神医学研究所の門をたたいたのでした。ミュンヘンの秋はオクトーバーフェストで始まります。
訪問初日は、神経病理学研究室の人すべてが仕事を早く切り上げて、ビール祭りに行くことになっていました。そして、私も切符が一枚余っているからということで誘ってもらいました。当時できたてほやほやの地下鉄に乗ってテレージエンヴィーゼに向かうと、そこにはサーカス小屋で使うような巨大なテント小屋がたくさん並んでいました。地元のビール会社が自前のテントでビールを飲ませるのです。テント小屋の中央にはバイエルンの民族衣装を着けた楽団員が調子の良い曲を流していました。ホーフブロイといった大手のビール会社のテントには千席近くがあり、大ジョッキを次々に飲み干し、人波の中で肩を組み合って乾杯の歌「アイン・プロージット」を大声で歌うのです。それは南ドイツの気風をそのまま伝える素晴らしく陽気な雰囲気でした。
単身の留学者は気楽なものでした。午後4時になるとドイツ語研修のために研究所を離れ、クレぺリン通りを抜けシャイデプラッツ地下鉄駅から3駅目のギーゼラシュトラッセまで乗ります。ゲーテ学院は駅からすぐのところでした。ここではドイツ語を習うために世界各国から生徒が集まっていました。私のクラスには、ハンガリーから亡命してきた金髪の看護師、ドイツ人と結婚した陽気なイタリア妻、ドイツ語を身に付け故郷で高給職を狙うフランスの田舎娘、ドイツで医学部を目指す陰気な日本人男性、日本人そっくりのポルトガルから来た若妻、不法入国で送還されていった髭面のイタリア人男性などまさに人種のるつぼでした。授業は平凡ですが、その後の課外活動がとても楽しいものでした。近くのイタリアンリストランテでワインをひっかけスパゲッティを食べながらの談論風発です。全員片言でワイワイやるのです。授業の文法は劣等生のイタリア人がこの時になると俄然元気に談笑を始めます。文法はめちゃくちゃでも一番よくしゃべりちゃんと通じるのです。私自身ほろ酔い気分で緊張が解けこの時間になると結構スムーズにドイツ語が出るのに驚きました。日本の若者と異なり、国際問題が日常的な話題となっており、当時の日本の若者よりずっと深刻な話が出ていました。
10月に渡独して12月までの語学研修期間は単身でした。その間は、研究所に勤める女性が半年間のウアラウプ(バカンス)で不在中のマンションを借りました。家具も寝具も台所用品も全部そのまま使うことが出来大変重宝に暮らしました。この住まいはバイエルン王の夏城であるニンヘンブルグ城に続くシュロース・カナール近くのヘンリック・イプセン通りにありました。ひっそりとした高級住宅街の瀟洒な2階建て住宅の2階でした。日曜日には近くの公園にたくさんの老人が日向ぼっこに来ていました。もうこの頃よりドイツはある意味で老人大国になっていたのでしょう。今でこそ日本でも老人を結構たくさん見かけますが、当時この光景を見て何か不思議な感じがしました。また、12月になりカナールが凍り、地元男性がカーリングのようなスポーツを楽しんでいました。見るもの聞くものすべてが珍しいものばかりの毎日でした。湿気の多い日本からドイツの乾燥した天候の生活に入りオランゲン・ザフトが素晴らしくおいしかったことが忘れられません。この高気圧で乾燥した気候のお陰で私の喘息はすっかり影をひそめました。さらにストレスのない自由気ままな生活もよかったのでしょう。ここでの3か月間の単身生活は本格的な研究生活に入る前のドイツ生活に慣れるためのウオーミングアップとして大変意義のあるものでした。
医療法人 和楽会 理事長 貝谷久宣
オリンピックが終わった年(1972年)の秋から2年間留学生活をミュンヘンで私は送りました。それは私の人生の中でも最も輝いていたひと時でした。期待と緊張で胸をときめかしてマックス・プランク精神医学研究所の門をたたいたのでした。ミュンヘンの秋はオクトーバーフェストで始まります。訪問初日は、神経病理学研究室の人すべてが仕事を早く切り上げて、ビール祭りに行くことになっていました。そして、私も切符が一枚余っているからということで誘ってもらいました。当時できたてほやほやの地下鉄に乗ってテレージエンヴィーゼに向かうと、そこにはサーカス小屋で使うような巨大なテント小屋がたくさん並んでいました。地元のビール会社が自前のテントでビールを飲ませるのです。テント小屋の中央にはバイエルンの民族衣装を着けた楽団員が調子の良い曲を流していました。ホーフブロイといった大手のビール会社のテントには千席近くがあり、大ジョッキを次々に飲み干し、人波の中で肩を組み合って乾杯の歌「アイン・プロージット」を大声で歌うのです。それは南ドイツの気風をそのまま伝える素晴らしく陽気な雰囲気でした。
単身の留学者は気楽なものでした。午後4時になるとドイツ語研修のために研究所を離れ、クレぺリン通りを抜けシャイデプラッツ地下鉄駅から3駅目のギーゼラシュトラッセまで乗ります。ゲーテ学院は駅からすぐのところでした。ここではドイツ語を習うために世界各国から生徒が集まっていました。私のクラスには、ハンガリーから亡命してきた金髪の看護師、ドイツ人と結婚した陽気なイタリア妻、ドイツ語を身に付け故郷で高給職を狙うフランスの田舎娘、ドイツで医学部を目指す陰気な日本人男性、日本人そっくりのポルトガルから来た若妻、不法入国で送還されていった髭面のイタリア人男性などまさに人種
のるつぼでした。授業は平凡ですが、その後の課外活動がとても楽しいものでした。近
くのイタリアンリストランテでワインをひっかけスパゲッティを食べながらの談論風発です。全員片言でワイワイやるのです。授業の文法は劣等生のイタリア人がこの時になると俄然元気に談笑を始めます。文法はめちゃくちゃでも一番よくしゃべりちゃんと通じるのです。私自身ほろ酔い気分で緊張が解けこの時間になると結構スムーズにドイツ語が出るのに驚きました。日本の若者と異なり、国際問題が日常的な話題となっており、当時の日本の若者よりずっと深刻な話が出ていました。
10月に渡独して12月までの語学研修期間は単身でした。その間は、研究所に勤める女性が半年間のウアラウプ(バカンス)で不在中のマンションを借りました。家具も寝具も台所用品も全部そのまま使うことが出来大変重宝に暮らしました。この住まいはバイエルン王の夏城であるニンヘンブルグ城に続くシュロース・カナール近くのヘンリック・イプセン通りにありました。ひっそりとした高級住宅街の瀟洒な2階建て住宅の2階でした。日曜日には近くの公園にたくさんの老人が日向ぼっこに来ていました。もうこの頃よりドイツはある意味で老人大国になっていたのでしょう。今でこそ日本でも老人を結構たくさん見かけますが、当時この光景を見て何か不思議な感じがしました。また、12月になりカナールが凍り、地元男性がカーリングのようなスポーツを楽しんでいました。見るもの聞くものすべてが珍しいものばかりの毎日でした。湿気の多い日本からドイツの乾燥した天候の生活に入りオランゲン・ザフトが素晴らしくおいしかったことが忘れられません。この高気圧で乾燥した気候のお陰で私の喘息はすっかり影をひそめました。さらにストレスのない自由気ままな生活もよかったのでしょう。ここでの3か月間の単身生活は本格的な研究生活に入る前のドイツ生活に慣れるためのウオーミングアップとして大変意義のあるものでした。