孤独な海 前篇
2週間ぶりのフクロウblogの更新です。
今日は和楽会の季刊誌であるケセラセラ(詳しくはページ下部のリンクからご覧いただけます)で掲載しています、ドクターのコラムをご紹介します。
今回は大井先生のコラム、前篇です。
1976年秋、ハーバードの公衆衛生大学院にはいろいろな年齢の学生が入ってきたが、一人とびぬけて六十台に見える白髪の小柄な白人がいた。それがボブ・ゲイジだった。
学生にはすでに医学部を卒業した者も多く、また海外青年協力隊に入りアフリカなどで何年か現地の公衆衛生活動に従事した後、疫学、統計など公衆衛生の基礎をなす学問を学びなおそうという志をもった者も多かった。年齢が二十代、三十代それに少数の四十代という拡がりを示したのも当然である。
私は家内と娘を連れ、五年間務めた東京都立衛生研究所を休職した四十男。それまでさっぱり解らなかった疫学、統計学など、集団の数量的評価方法を学び、本格的に社会医学の道を進もうと決心していた。日本からは、エッソ系石油会社から派遣され五十代と見える白髪を黒く染めた小峯さん、厚生省からの留学生で私と同年輩の松村さんが同じクラスだった。
小峯さんは潤沢な交際費を支給されているようで、クラスの連中を次々に誘い、ピア・フォーというボストン港にあるロブスターなどの海鮮料理店で御馳走をしていた。私と家内も一度そこでおごってもらったが、メニューにある品目はすべてもう試してみたと得意気だった。休職中で貧乏生活を余儀なくされている我々は複雑な気分だったが、アフリカから来た連中はエッソが奢るのだから遠慮しなくていいのだと陰では露骨だった。
ボブ・ゲイジと親しくなったのは、ある時、私が論理的で整然とした意見を述べることがむずかしいという愚痴を漏らしたからだった。彼は、「うんそう、私もなんだ、だけど失敗するのを怖いとは思わんね」と、少しどもるようにしわがれ声で言った。試験の成績や自分の発言に対する評価を気にしないその態度に尊敬の念を覚えた。
彼が第二次大戦中ハーバード大学医学部を卒業し、海軍軍医になったが、戦後開業し何年か前までマサチューセッツ州アマーストで家庭医をしていたということは、知っていた。開業し家庭医として往診をするのは身体にもきつく、それなりに覚悟が必要である。公衆衛生大学院に来たのは多忙な臨床医の骨休めかと思ったのは、私の他人に無関心・無頓着という、よく言えば超然、わるく言えば自己中心的性向による誤解であった。彼はすでにマサチューセッツ大学アマースト校保健学科学科長でサバティカ(長期有給休暇)の有効利用だった。
彼も夫人のペギーも寛大で、特に宗教心がつよい気配はなかったが、その倫理的な態度は紛れもなくピューリタンであった。人間の平等に対する敬意とニューイングランド的質素と合理性。それは、押しつけがましくない思いやりと絶妙なユーモアのセンスによって味付けされていた。ゲイジ夫妻はクリスチャン精神の最良の側面を体現していると、われわれ夫婦は語り合った。
アマーストの十室ある家は、冬には華氏の60度にセットされていて、スウェーターを着て丁度くらいだった。車はジープで、道なき悪路でも乗り越えていける。食事も栄養のバランスがとれていたが質素だった。それを補って楽しくさせてくれるのが面白い話だった。