孤独な海 後篇
こんにちは。
先日、やっと梅雨明けしたなぁと思っていたらうだるような暑さが続いていますね。体調を崩されていませんでしょうか?
前回フクロウblogでは赤坂クリニックの吉田院長によるコラムを掲載いたしましたが、本日は大井先生のコラム後篇をご紹介します。
彼がハーバードの医学生だった頃、疾病の検査法などはあまり発達していなかった。医師は五感のすべてを鋭敏に用いて病気の重さを推測すべきと教えた教師がいた。
ある時フラスコを一つ示して「ここに糖尿病患者の尿が入っている。諸君すでに承知のとおり糖は尿に出てくる」と言って指を突っ込み舐めてみせた。それを学生に回したので学生たちはいやいやながら指を入れて舐めた。フラスコが戻ると彼は言った。「尿の甘さはどうだったかね。諸君は私が人差し指を尿に入れたが、舐めたのは中指だったのを見取ったかね。医師たるものは鋭い観察眼がなければならない」と、言ってウィンクした。
ボブはアマーストきっての流行医だったから、いろんな体験があった。ある時オーバーコートを着た若い男が訪ねてきた。ジョニーが肺炎だから治療してくれと心配な様子。「それはいいがジョニーをまず診ないといかんね」と言うと、男は身体をもぞもぞくねらせていたが、一匹の長大なボア(大蛇)を取り出した。体に巻きつけていたのだ。よくぞ絞殺されないものだと思ったが、「なぜ肺炎だと判るのかね」と聞いた。「だって元気がなくて、首の下の胸と思われる部位を首のほうにしごくと鼻の穴から膿みたいな鼻汁が出るのです」。ボブは青年の診断技術に感心した。問題は鱗に覆われた身体のどこに抗生物質を注射するのかである。結局刺したのは、肛門の後ろの柔らかい部分だった。その後、青年はボブの診療所を訪れなかったが、半年ぐらい経って街でばったり遭った。ジョニーは一発のペニシリン注射ですっかり元気になったという。
マサチューセッツ大学アマースト校は札幌農学校の校長をしたウィリアム・クラークが勤めていたところ。当然、北海道大学の関係者は姉妹校という親近感を抱き、やってくる。お土産は木彫りのアイヌやヒグマという定番をどの訪問客も用意してくる。それが何組も何組も到来するので、ゲイジ夫妻は困ってしまった。一計を案じ、それらを市役所に保管してもらい、北海道からの来客があるときには入り口にも部屋にも木彫りを飾っておくことにした。お客に敬意を表明しながら、土産の数が少しでも増えないことを願って。
彼らの夏の別荘はメイン州の海岸沿いにあった。海岸まで歩いて数分の距離で、暗い大西洋の潮騒が、アメリカ松の林越えに冷たい風によって運ばれてくる。彼らの所有地は20エーカーもあり、その三分の一ぐらいは草原で雑草や灌木が生えており、周囲は針葉樹を主とした森だった。七月、草原には何万という蛍が埋め尽くし乱舞するが、我々が訪れた八月蛍の姿はまばらだった。しかし居間の大きな窓は西方を向いており、日輪が沈みゆき草原の向こうの森に触れようとするとき、木々の先端を金色に隈どった。沈黙した座にはときおり街道を走る車の鈍い響きが伝わってきた。
質実剛健なニューイングランド的合理性はその二階建ての家を建てるのにも現れていた。外郭と屋根、内部の部屋分けの壁を建築家に造ってもらうと、残りは自分で造るのだった。われわれが訪れたときは屋根裏を作っていた。道路から家にいたるまでには飛び石風の敷石が置かれて始めていた。私もその一つを置くのを手伝ったが、彼はそこを「ゲンの道」と名付けた。
昼時、ロブスターを獲る餌の腐った魚の臭いがかすかにする海で私と娘は泳いだ。水は冷たかったが、私は海岸の左手に突き出た岬まで泳いだ。海岸にいる人は我々だけであった。海は、静かだが陰鬱で、いつ荒れるのか判らぬ危険を予感させた。高校生時代覚えたジョン・メイスフィールドの詩Sea Fever の海は、こうでなければならない。
もういちど 海へ行かねば
孤独な海と空のもとへ
求めるものは 帆船と
それを導く星だけ
航輪が跳ね 風が歌う
白い帆がはためく
海面に立ちのぼる灰色の霞
そして始まる 灰色の暁
(大井幸子訳)
ボブは毎年、クリスマスに自筆で自分の家族の様子を細かい字で書きつづってきた。ペギーが二度目の股関節の手術を受けたことなど。しかし自分の病気についての報告は一切なかった。三年前それが来なかったとき、私は彼の死を悟った。