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病(やまい)と 詩(うた)【65】—新型コロナ・パンデミックとロシア—(ケセラセラvol.111)

東京大学名誉教授 大井玄

新型コロナの流行は今後どのように変化していくのだろうか。
感染症が流行するとき、社会医学の立場からは三つの側面を注目する。まず、その感染症の感染性と毒性。第二に、患者の抵抗力。そして、もっとも重要な要因として社会環境の諸条件がある。
新型コロナの場合、約100年前に猛威を振るい、世界で5,000万人から8,000万人とも言われる死者を出した鳥インフルエンザ(スペイン風邪)にくらべ、はるかに毒性は低いようだ。スペイン風邪では日本の場合、第一次の流行で約25万人、第二次の流行で12万人の死者がでた。
新型コロナウイルス感染症では、七次までのピークが過ぎて、感染者は累計2,200万人、死者は5万人に達していない。日本の人口は1億3,000万人。世界一の超高齢社会、つまり感染が死亡につながりやすい集団である。相対的にすぐれた対応といえる。

ロシアのコロナ感染情況
今年2月、ロシアはウクライナに侵攻した。プーチン大統領の口実は、ウクライナがネオ・ナチス国家であり、ロシアが一方的に併合したドンバスでジェノサイドを行ったというものだ。後述するが、歴史を知る者には噴飯物の言いがかりであった。そもそも、ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系であり、ナチス国家においては想像もつかない。
しかし社会医学徒としての筆者の関心は、隣国を侵攻している国のコロナ感染情況が、侵攻を許すほど制御されているかどうかにある。

Reuters Covid19 Trackersによると、2022年7月15日の時点で世界でもっとも感染規模の大きいのは、人口3億3,000万人の米国であり、累計で感染者8,900万人、死者は、実に、102万人である。しかし、ドナルド・トランプ前大統領が科学に基づいた対応を全く行わなかったことを考えれば不思議ではない。
ついで人口2億1,000万人のブラジルはどうか。当欄でも過去に述べたように、ブラジルのトランプと言われるボルソナロ前大統領は、新型コロナ感染症を「ただの風邪」と切り捨てたことで知られる。トランプ氏同様、経済活動を妨げるロックダウンのような措置は行っていない。この国での感染者は3,300万人であり、死者は67万人で、やはり高い。
ところが、人口1億5,000万人のロシアでは、感染者が1,800万人であるのに、死者は80万人。ブラジルよりも13万人も多いのだ。なぜか?
その約10倍の人口14億人を持つインドでは、感染者4,300万人だが、死者は52万人でロシアよりはるかに少ない。インドの疾病統計が実際より少なく報告されているのはよく知られるところだが、それでも、ロシアの死者数は、べらぼうに多い。

ロシアのコロナ感染者への対応実態
日本でもコロナ感染者急増期には、医療機関の対応能力を超える事態が、一時期起こった。沖縄はその一例である。それでも死者の急増は、生じなかった。
ロシアのコロナ感染者への医療的対応能力が貧弱であったのは、次の二報告からも窺われる。

まず、クリミア半島(ウクライナ領、ロシアが2014年から実効支配)の女性医師は、患者100人を、3人の医療関係者で対応した状況をまるで「戦場」と述べている。
「感染ピークの10月から12月、患者100人を医師1人、看護師1人、看護助手1人で受け持ちました。絶え間なく、患者の誰かに異変が起きて病院は戦場のよう。医療スタッフは8~9時間、ぶっ続けで防護服を着て、水も食べ物も口にできず、トイレにも行けませんでした。検査結果を1階に運ぶとき、エレベーターの中で坐り込みました。休憩はその数秒間だけ。
重症患者は、顧みられず、次々に亡くなりました。治療が終わるのは午前4時。患者からは苦情も脅迫も相次ぎました。
私も仕事中にコロナに感染。気づかぬうちに家族全員にうつり、母は重篤な状態に陥りました。」

次の例は、南部カフカスの女性医師。彼女はコロナ治療の指定病院ではなく、一般の病院で働いていた。
「夏ごろから来院する3~5人に1人の割合で、コロナ感染者が見つかりました。秋になると、2~3人に1人までコロナ感染者が増えました。患者が搬送されると検査でコロナを確認します。コロナだと判ると指定病院に移送しました。そんな現場なのに、私たちは防護服も割り当てられず、マスクしかありませんでした。
指定病院では感染防止の装備もそろい、医師たちはより多くの給与を貰えるのです。私はコロナの患者に接しているのに、月給は1 万4,000ルーブル(約2万円)。夫が働いていなければ、高い給与を求めて職場を変えていたでしょう。」

スプートニクVという新型コロナウイルスワクチン
前章2人の医師の嘆きを読むと、まるで未開国の医療現場ではないかと感じよう。しかしロシアにはすぐれたワクチン製造技術があり、実際、コロナパンデミックが始まった2020年の8月には「世界初のコロナワクチン」として同国で承認されている。
同年9~11月に約2万人が治験接種を受け、91.6%の効果があったと、2021年2月に速報を重視する英国の医学ジャーナル、ランセットに報告された。重大な副作用もなく、60歳以上の高齢者でも、有効性は変わらないと報告された。ロシア国民への接種は20年12月に開始され、病院のみならずデパートも接種会場として利用された。

笛吹けど踊らず:進まぬワクチン接種
しかしロシア国民は、どういうわけか、接種に熱意を示さないのである。
2021年7月初旬の段階で、スプートニクVを1回でも接種した人は、わずか17%にすぎない(同ワクチンは2回接種で完了)。それに対し、世論の54%は接種したくないとこたえている。
同年7月7日、NHK石川一洋解説委員の説明によると、欧米のワクチンは危険だが、ロシア製は安全という宣伝への「副反応」である、という。
「アメリカ製のファイザーやモデルナのワクチンの安全性は証明されていないとプーチン氏は発言し、接種後の事故もあると強調した。だからロシア製の方がよいという論理だが、一般の人は欧米製が危険ならロシア製はなおさら危ないと、権力側の思惑とは逆の副反応を起こしている。」
どこの国でもそうだが、「安心、安全」と唱えるだけでは国民の不信と不安を払拭するのはむずかしく、なぜ安全なのか、なぜ必要なのか、客観的データを示し、説明する努力が求められると言う。
事実、WHO(世界保健機関)は、スプートニクVを「承認に必要なデータや法的な手続きに不足がある」として承認していない。これに対し、競争関係にある中国産のワクチンは二種類が承認されている。

プーチンの現代史的発言
1991年夏、ソビエト連邦崩壊とともにウクライナ最高議会は、ほとんど全会一致で独立宣言を採択した。
同年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票が行われ、国民投票では90.2%が独立に賛成した。
ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザポリージア、ドニプロプトロフスクの各州でも80%以上が賛成であった。ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54%と過半数を上回った。
2014年、ウクライナのユーロ・マイダン(欧州広場)革命で親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコヴィチ大統領がロシアに亡命し、ロシアはクリミア半島を一方的に併合し、ウクライナ東部、南部の四州(ドネツク、ルガンスク、ザポリージャ、へルソン)をも制圧した。
ウクライナへの侵攻は、すでに、この時点で始まったのだ。
2022年9月、占領下で「住民投票」を行い、各州の90%前後がロシアへの編入に賛成したと発表した。ただし「選挙管理委員会」はロシア側によって運営され、兵士や警官が戸別訪問に同行、投票を求めたという。
プーチン大統領は9月30日に演説し、四州住民が「あり得る唯一の選択を行った」、「併合は数百万の人々の意思であり、四州に住む人々は永遠に我々の同胞となる」。また「ウクライナを造ったのはロシア」、「住民が投票によって、歴史的な祖国であるロシアと一緒になることを選んだ。お帰りなさい」などと述べた。
10月12日、国連総会において、ロシアによるウクライナ四州併合は、無効だ、とする決議が、賛成143、反対5で採択された。

ロシアにおけるコロナワクチン接種率が、なぜ、みじめなほど低いのか。その真相は不明である。しかし、プーチンをはじめとする指導者に対する、「不信感」が底流にあるのは窺えよう。  了

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