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時間感覚についての補説~トーマス・マン「魔の山」より~(ケセラセラvol.76)

医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック院長 吉田 栄治

1年前の2013年冬号のケセラセラVol.71(http://www.fuanclinic.com/files/queserasera/2013_71_winter.pdf

に「光陰矢のごとし」ということで、年をとると時間の経過が早くなるという記事を書きましたが、それから早いもので1年と3ヶ月が経ってしまいました。今回、ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンの本を読んでいましたら、時間の経過に関する議論が出てきまして、文豪に書かせるとさすがに違うなと、感じ入りましたので、そちらを少々引用させてもらうことにしました。

通勤の往き帰りの電車やお昼休みのちょっとした時間に、いろいろな本を読むのですが、この数年は古典的文学作品に少々はまっていまして、今は、トーマス・マン(1875~1955)の「魔の山」を読んでいます。お話の内容は、主人公のハンス・カストルプ青年が、アルプス山脈の麓(ふもと)にあるサナトリウムに結核療養中のいとこを見舞いますが、自分自身も結核に罹患していることが判明し、当初は3週間の短期滞在のはずだったものが、7年間の長きにわたって療養することになるというものです。この長期療養中に経験するいろいろの出来事が物語として淡々と語られていきます。この山の生活に魅せられてしまい、平地の生活に帰れなくなってしまう主人公、魔の山の魔力のとりこになってしまう主人公の事が語られていきます。

私は、まだ見ていないのですが、スタジオ・ジブリの映画「風立ちぬ」に、カストルプというドイツ人が出てきて、そのドイツ人がサナトリウムがある軽井沢のホテルの事を「魔の山」と呼び「地上のこと全部忘れる」と言うシーンがあるようです。宮崎駿はこの映画に、トーマス・マンの「魔の山」の主人公を模した人物をさらりと登場させているのですね。

この小説には、いろいろなテーマが凝縮されているようなのですが、時間というものも大きなテーマのひとつになっていて、時間ということに関して不思議な感覚を味わいながら、今現在もゆっくりと読んでいます。最初は、新潮世界文学の「魔の山」高橋義孝訳(800ページほどの辞書の様に分厚い本です)を古本で購入して、毎日、少しずつ読み始めました。分厚い本をめくりながらゆっくりと読むのですが、これがなかなか味があって、時間の進みが非常にゆったりとしたサナトリウムに、読んでいる私自身も迷い込んでしまったかのような不思議な感覚におちいりました。結局、通勤の際にも少しずつ読みたいと思い、岩波文庫版の「魔の山」上下巻を古本で購入し、途中からはそちらで読んでいます。マンもこの本は時間をかけてゆっくりと読んでほしいと考えていたのか、まえがきで、次のように書いています。

・・・その物語の必要とする空間や時間・・・作者はハンスの物語を手短かに話し終えるというわけにはいかないのである。一週7日では足りないだろうし、7ヶ月でも十分ではあるまい。一番いいのは、話し手がこの物語に係り合っている間に、どれほど地上の時間が経過するか、その予定を立てないことである。いくらなんでも、まさか7年とはかかるまい。※

この本を物語る(書く)のにどれだけの時間がかかるかということなのか、読むのにどれだけかかるかということなのか、どちらにもとれそうですが、マンはこの「魔の山」を1912年頃に書きはじめて1924年に上梓しているということですから、書きあげるのに約12年の歳月を要しています。大部の本ですが、この本を読むのにさすがに7ヶ月はかからないだろうと思いますが、2、3ヶ月はかけてゆっくり読んでいこうと考えています。

この「魔の山」の中で、時間に関する議論がたびたび出てくるのですが、以下はその一部の抜粋です。

間断なく同じ生活が続く場合には、時間の体験が失われる危険がある。・・・

退屈ということについては、世間にいろいろと間違った考え方が行われている。

一般には、生活内容が興味深く新奇であれば、時間の経つのが短くなるが、単調とか空虚とかは、時間の歩みに重しをつけて遅くすると信じられているが、これは無条件に正しい考えではない。

一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは、時間を引き伸ばして「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、途方もなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。

その反対に、内容豊富で面白いものだと、一時間や一日くらいなら、それを短縮し、飛翔させもしようが、大きな時間量だとその歩みに幅、重さ、厚さを与えるから、事件の多い歳月は、風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない歳月よりも、経過することが遅い。

従って、時間が長くて退屈だというのは、本当は単調過ぎるあまり、時間が病的に短縮されるということ、のんべんだらりとした死ぬほど退屈な単調さで、大きな時間量が恐ろしく縮まるということを意味する。一日が他のすべての日と同じであるとしたら、千日も一日のごとくに感ぜられるであろう。そして毎日が完全に同じであるならば、いかに長い生涯といえども恐ろしく短く感じられ、いつの間にか過ぎ去っていたということになるだろう。

習慣とは、時間感覚の麻痺を意味する。あるいは少なくともその弛緩を意味する。青春期の歩みが比較的ゆっくりとしているのに、それ以後の年月が次第にせわしい急ぎ足で流れ過ぎていくというのも、この習慣というものに原因があるに違いない。

新しい習慣をもつことや習慣を変えることなどが、生命力を維持し、時間感覚を新鮮なものにし、時間の体験を若返らせ強め伸ばすということ、それがまた生活感情全体の亢進を可能にする・・・。習慣の切替え、すなわち変化とエピソードによる休養と回復、これが転地とか湯治場行きとかいうことの目的である。※

なるほどと感じた部分です。若い頃の様に変化に富んだ毎日でなく、単調な日々になっていくと時間の進み方がどんどん速くなってしまうのだなと。ただし新しい刺激をただただ求めるのは、あまり良いことではないでしょう。ちょっと間違えるとギャンブルやらお酒やら買い物やらといったものにのめりこんでしまい、これらは刹那的な刺激にしかすぎませんので、結局は生活感情を向上させることには、つながりません。毎日の淡々とした生活の中に、何か新しいものを見つけていく、何でもない毎日を新鮮な驚きを持って味わっていく、それこそ前回のケセラセラにも書きましたマインドフルな生活を心がけていくことが、大事なんだろうと思います。

今も、じっくり味わいながら「魔の山」を読んでいるところで、読了には、もうしばらく時間がかかりそうです。

※新潮世界文学34 トーマス・マンⅡ 「魔の山」 高橋義孝訳 より

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