不安のない生活(24)ミュンヘンの思い出 その2
不安のない生活(24)ミュンヘンの思い出 その2
医療法人 和楽会 理事長 貝谷久宣
ゲーテ学院でのドイツ語研修が終わると間もなく、家族がミュンヘンにやって来ることになっていた。留学生の面倒を事細かにみてくれる親切な研究者がいた。
彼の名前はメーライン。イラク出身でミュンヘン大学医学部を卒業し、地元の医師と結婚し、ドイツに帰化していた。彼は臨床神経病理学のそうそうたる研究者であり、後にミュンヘン大学医学部病理学教授になっている。彼が車を出してくれてリーム空港まで家族を迎えに行った。妻は3歳の長女と2歳の長男を連れたくさんの荷物とともに到着した。女性一人で幼児を二人も連れての初めての海外旅行はさぞかし心細かっただろうと、この歳になって初めて妻の苦労を思いやることが出来るようになった。
ミュンヘンはクリスマスも終わり、静かな街になっていた。荷物を解き、親子4人の安らかな生活が始まった。正月元旦は特に大きな行事はなく、時に爆竹がなるぐらいで、2日からは平常の勤務が始まった。
マックス・プランク精神医学研究所での生活は単調なものであった。わたしは、1年間はペータース所長の主宰する臨床病理学を、2年目はクロイツベルグ教授の率いる実験病理学を研鑽する予定になっていた。研究所の3階にはザンムルングと呼ばれている大部屋があった。中央には10数人がミーティングできる大きなテーブルがあり、壁側の棚には人脳の顕微鏡標本が数千症例整然と保管されていた。その大部屋の窓側は5、6の個室に仕切られており留学生に割り当てられていた。どの部屋にも大きな書斎と机の上には顕微鏡が常備されてい
た。個室のドアを出れば標本が山のようにあり、プロトコールからめざす病気の症例をいくらでも見ることが出来た。要するに、ザンムルングの片隅に部屋を与えられた留学生はこの標本を好きなように使って研究し論文を書きなさいという事であった。この標本群の中には神経細胞を明確にみることの出来る染色を発明したニッスルが作った歴史的な標本も保管されていた。ここで少し脱線して述べると、マックス・プランク精神医学研究所は精神医学における哲学的思索や精神分析的アプローチを嫌ったクレペリンが神経病理学を精神医学の基礎とすべき学問として設立した研究所である。クレペリンはミュンヘン大学精神医学教室の主任教授の時に神経病理学者であるニッスルとアルツハイマーをこの研究所に招いた。アル
ツハイマーが発見した初老期痴呆症はクレペリンによりアルツハイマー病と命名されたのであった。さて、私の1年目は臨床神経病理学の研究という事で症例報告論文をドイツ語で2報仕上げ、さらに日本からの症例を英文で一報仕上げた。実は、このワーカホリック的生活の陰にはかなり強いプレッシャーが日本からかかっていた。それは恩師岐阜大学精神医学教室の難波益之教授からの2通の手紙である。はじめは、森鴎外の「うたかたの記」とともにドイツ生活を十分に楽しむようにという文言の手紙であった。私はこの手紙を有難く思いすぐミュンヘン郊外にあるスタルンベルグ湖に家族と共にドライブを楽しんだ。そして、その後受け取った手紙には帰国するまでに論文を最低3編は書いてくるようにと書かれていた
のだ。「うたかたの記」の内容に少し触れると、この短編小説は森鴎外がミュンヘンに滞在中に起こった事件をもとに書かれたものである。当時のバイエルンで次々と城を作り浪費する王ルードビッヒⅡ世の狂気の精神鑑定を依頼されたミュンヘン大学精神科教授グッデン博士がこの王と共にスタルンベルグ湖で溺死体となって発見された事件である。
前述のニッスルやアルツハイマーはこのグッデン教授の弟子であった。