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病(やまい)と詩(うた) -ウィリアム・S・クラーク先生(4)-(ケセラセラvol.80 春)

東京大学 名誉教授 大井 玄

 

親切な教師

 
中国の作家魯迅は、仙台医学専門学校に留学中、解剖学教授の藤野厳九郎に毎回ノートを見てもらい添削してもらったことを短編「藤野先生」に書いている。日本語が完全ではない彼にとって、身に沁みる親切だった。クラークは植物学をも教えたが、植物の学名はすべてラテン語であり、その素養のない学生たちは、筆記に大変な苦労をした。彼は学生たちのノートを実に丁寧に見てやり、その間違いを直してやっている。これはまた英語作文能力を高めるおそらく最良の方法であったが、教師にとっては非常な労力が必要になる。彼がウェブスターの英語辞書を沢山用意してきたおかげで、学生たちは勉強時、各人が一冊自由に使えたのである。
クラークの学生との接触は緊密で、夜、自分の宿舎で定期的に学生と会い、ひざを交えていろいろ話をしてやった。学生は話の面白さに釣り込まれただけでなく、先生が靴下をかがったり、ミカンを盛んに食べたりする姿にも惹かれた。


クラークは、褒めることによって学生の積極性を引き出す教師であった。「枯れた草は何の役に立つか」という質問に誰も答えられず、一人が苦し紛れに「枯れた草とは緑の草が水分を失ったものです」と見当はずれの答えをいったら、彼はよくぞ答えたとばかり褒めたという。しかし褒めるが叱らないのはアメリカ教育の特徴かもしれない。筆者がハーバード公衆衛生大学院で経済学を選択したとき、やはり見当違いの答えをした。しかし教授は「君は真実に危険なほど近い」とウィンクしたのだった。
クラークは非常に話し上手だったが、学生の興味をつなぐためいろいろなテクニックを用いている。南北戦争での冒険や経験談を語り、学生にすぐ役立つような知識を重点的に教えたり、冗談を飛ばしたりした。講義を聴くのにくたびれたとき、教師のジョークで笑わされると眠気も吹っ飛ぶ。また授業中にあまり熱心でない学生がいると、彼はその学生に質問を向けてクラス全体の注意をひきつけた。教科書を使う場合には、「ここから何頁調べてこい」と学生に当てるが、次の時間その部分を取り上げないこともある。しかし怠けると不意に急所を突いてくる。油断はならず、学生はまじめに勉強せざるをえなかった。
雄弁家のクラークは弟子たちにもその指導をしている。前述の大島正健は、例によって感激した調子で記している。
(前略)先生が我々に雄弁学を教え、いやしくも人の上に立ち人を導かんとする者は弁舌がうまくなくてはならぬ、と申されて熱心に指導されたことも忘れがたい大きな賜の一つである。英語も日本語も人の思想を現わす点においては変わりあるまいとて、盛んに英語の演説を稽古させ、演壇に上がるときの姿勢態
度から言葉の抑揚頓挫など懇切に丁寧に指導された。有名なグレーの墓畔の詩やジュリウス・シーザーの中のアントニーの演説やらを盛んにやらされたが、私どもが今日人前で堂々と意見を述べたりすることができるのは、ひとえに先生の賜物であると信じて疑わない。
目上の者を畏敬する傾向の強い日本と合理性を優先させるアメリカの文化・社会的違い、を感じさせるエピソードもある。
クラークは学生時代から植物鉱物採集に凝っていた。札幌でも学生たちを連れて近隣の山で標本採集をした。冬、手稲山に行き、手の届かない高いところにある苔を見つけたので、背の高い黒岩という学生に自分の背に乗ってそれを採れと頼み、四つん這いになった。黒岩は偉い先生の背に乗るなんてと尻込みしたが、命に従わなければと靴を脱ごうとした。しかしそのままでよいと言われて更に恐縮したのだった。「先生を土足にかけるなんて!」と彼は思っただろう。しかし苔は新種であって、セトラリア・クラーキー(クラーク苔)と学名が付けられた。

 

三人分の働き

 
教師として、伝道者として、クラークは日本人の心にその影響を残した。彼はそのほかに、北海道における農業・畜産の初期発展にも貢献している。日本には仏教の影響もあり、肉を食べる酪農に関係する食習慣は一般になかった。
彼はカリフォルニア産の労役用と酪農用牛の輸入を勧め、アマーストに帰った後でも、札幌農学校の農場用にエアッシャー種の牛を六頭送ってやっている。馬については、北海道産の馬の去勢計画を積極的に進め、南部産の種馬の育種用に導入すること。羊は、中国から買っていたのをカリフォルニアから毛の太さ長さの異なる数種の輸入を提唱した。畜産業の将来は、適当な飼料を確保できるかどうかにかかっている。地元の牧草は感心できないので、彼は札幌に来てまもなくの頃一二○○ポンドもの牧草の種を注文し、これは翌年の春の蒔き付けに間に合った。北海道は、その後今日に至るまで日本の主要な酪農地である。
学校農場は彼の力を注いだ計画の一つだった。札幌の町から北に広がる一〇〇ヘクタールの土地で、耕作地、牧草地、森林用地から構成され、現在は北大のキャンパスになっている。その年、収穫はクローバー、大麦、小麦、米、豆、とうきび、馬鈴薯などだったが、秋、彼は農地整備に二○ ○ 人以上の人を雇った。
クラークはいろいろなアイデアを持っていたが、甜菜の栽培はヨーロッパで実験済みなので、高収入の作物になると確信していたという。

 
なぜ彼は契約更新をしなかったのか

 
クラークはわずか八か月札幌にいただけで、一八七七年四月一六日彼を敬愛する学生たちを振り切るように離札した。
実は、彼が行った北海道開拓に関する提言や農場に関係した仕事は、新設の農学校について契約した職務範囲をはるかに超えるものだった。日本政府が、契約更新し滞在を伸ばすよう彼に働きかけたとしても不思議ではない。一八七七年三月五日付の妻宛ての手紙には、日本政府がその年の夏一時帰国してもよいからもう三年契約を延長するよう求めたと記されている。彼女と相談してから決めるが、札幌に帰る可能性については口外しないよう釘を刺していた。
帰国後、クラークはアマーストから政府に返信したが、その手紙を日本の学者が意訳したものが残っている。それによると、クラークは今までの仕事は後に残った者たちに任せられるし、教師をやるのならアメリカでよい卒業生を世に送り出す方がよいが、もし、北海道開発会社でもできて、そこの責任者になるとか、甜菜糖会社の社長にでもなれるのなら北海道に残りたい、というものである。
返信の内容は、クラークの青年時代からの野心や価値観に沿う。新大陸という開放系世界において、自立自尊の生存戦略あるいは倫理意識と金銭欲・物質欲との間に相克はなかった。

 

 

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