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病(やまい)と詩(うた)【37】 -疎開した日- (ケセラセラ vol.83 冬)

東京大学 名誉教授 大井 玄

 

昭和十九年夏、戦況が大きく連合国側に傾き、日本本土にも空襲が行われるようになったころ、国民学校三年生の私は父に連れられて秋田市に疎開した。

父は県立秋田工業学校校長に任命されたので、他の家族たちを東京に残し、ひとまず学校の寄宿舎に舎監をかねて落ち着いたのだった。

学校は、市の北端に近い地区にあり、高いポプラの木立に囲まれた敷地に建つ、くすんだ灰色の古びた二階建て木造建築だった。夏休みであり、外に油蝉の鳴き声が姦しく聞こえるものの、長年生徒たちに踏まれ、すり減って木目の出ている廊下は、ひんやりと陰気だった。

学校の敷地を取り巻くのは稲田であり、それを隔てて西には農事試験場があり、北には一キロほど先まで天徳寺山が山裾を伸ばしていた。敷地の北縁に沿って奥羽本線の線路が通っており、時に汽笛が物悲し気に聞こえてきた。東京のほうに行く列車の汽笛が遠ざかっていくのを聴くと、沈んだ気分になるのだった。第一、土地の人が何をしゃべっているのか聞き取れなかったのだ。

疎開地の 蝉は同じ 声で鳴き

 

私たちは、校舎の北側で、長い廊下を通じて校舎につながる寄宿舎の舎監室に泊まることになった。鉄道の便の不自由な当時、地方から少なからぬ数の生徒が寄宿舎で生活していた。もちろん私たちが着いたときは、寄宿生は帰省しており、がらーんとしているものの、若者のかすかな体臭が残っていた。

新しい場所ではまずどこで食事し、どこに便所があるのか確かめなければならない。

舎監室から校舎に向かうと、長い廊下の右外側は稲田にまで続く草地になっていた。左側の外は低い植え込みが寄宿舎に沿って続いていた。廊下をさらに進むと、右側に寄宿生のための食堂があり、左に柔道場への入り口があった。

廊下をさらに進むと、校舎との境となる扉があった。校舎に行くには数段段差があるが、それを登りさらにその廊下を進むと正面は二階に登る階段があり、その前、左方向に廊下が続き、右は便所になっていた。便所は、学校便所の規格通り、左側で生徒たちが肩を並べて小便するようになっており、右には大便所が並んでいた。

到着の晩、新しい校長・舎監とその息子に歓迎の食事が出た。当時東京では、すでに食料配給が実施され、貧しい、動物性たんぱくのごく少ない日々であった。

父には酒が出され、私は秋田の白米、鳥の肉などを貪り食った。腹のくちくなった小学三年生はすぐに眠たくなる。服を脱ぐと布団にもぐりこんだ。

 

夜中、何時頃だったか。便意を憶えて目が覚めた。食べつけない肉などをたらふく食ったせいに違いなかった。校舎まで長い廊下を行くと思うとぞっとしたが、生理的欲求を押さえることはできない。隣の布団に寝ている父を起こし便所に連れて行ってもらうのは、三年生の沽券にかかわる弱虫の行為である。

舎監室の戸を開けると、廊下には暗い裸電灯が点いており、暗闇に丸い虹を作っている。東京では空襲に備えるため灯火管制が始まっていたが、秋田でもそうだったのか。廊下が暗闇のその彼方にずっと続いている。

私は校舎への廊下を恐る恐る歩き始めた。ガラス窓の外は暗く星空ではない。虫のすだく声も聞こえない。目が闇に慣れてきた。

こういう時に生ずる感覚は気味悪い。誰かが私のすぐ後ろから付いてきているような気がする。つかみかからんとしているような気がする。後ろを振り向きたい気持ちを必死に押さえて歩き続けた。

長い廊下の果てには校舎に続く扉がある。それを開けて校舎の廊下に入ると、闇に慣れた目には廊下がほの白く浮かび上がって見える。さらに進むと二階に続く階段があり、その右側には洞窟がぽっかり口を開けるような感じで便所があった。

便所の右側が大便所で、前から三番目の扉が少し白く見えた。修理した白い板なのだろう。私はそこに入り、それまでこらえていた用を足した。

立ち上がり、バンドを締めようとしたとき、何か上に気配を感じた。ひょっと見上げると、若い男がこちらを見ており、にやっと笑った。

寄宿舎の炊事や雑務を行う用務員の息子が首つり自殺をしたのだった。彼は前日召集令状をもらったので、応召拒否であった。

しかし今もって解らないのは、あの暗闇の便所で、若い男が笑っているのを、なぜはっきり見えたのか、ということである。

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