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病(やまい)と詩(うた)【38】 ー入院記ー (ケセラセラ vol.84 春)

東京大学 名誉教授 大井 玄

 

医師は、まるで病気をしない手合いであるような口ぶりの人に会うことがある。そういう人は中学・高校のクラス会で特に多いような印象を受けるが、社交辞令のひとつかも知れない。

 

昨年十月、高齢者健診で、前年には見られなかった陰影が胸部レントゲン撮影で見つかった。CTで精査すると大動脈弓部の5センチ余りの動脈瘤だった。加齢による大動脈硬化の副産物と言ってよい。

百年ほど前、東京大学医学部内科教授で森鴎外などをも教えたエルウィン・ベルツはこれで亡くなっている。当時、治療法はなく、動脈瘤の破裂により苦悶のうちに死ぬのが常だった。彼はもちろんモルヒネで痛みを押さえた。

時代は変わり、医療技術は進歩した。人工心肺を用い、石筍のように硬くなった大動脈弓を人工血管で置換することも可能になった。

今では、その人の死生観により対応方法さえ分かれている。

内科的に、動脈瘤が大きくならないよう血圧をコントロールし、排便時いきまないように、便通を緩下剤で調整する選択がある。わが尊敬するO先生は、自分は八十代後半だし、夫人がアルツハイマー型認知症の末期であるという理由で、ここ数年間、以上のごとく対応してこられた。「大人しく仲良くしていれば、なかなか破裂したりしません」というコメントを、今年の年賀状でもいただいた。夫人を看取るのが生きる主目的で、それが終わったらいつ死んでも良いと言われる。

だが動脈瘤が急速に成長している場合には、外科的干渉に賭けるよりほかない。私の場合、一年前には見えなかったのに5センチ余りの嚢状の瘤に成長していた。走ったり、泳いだり、腕立て伏せや四股を踏むなどの激しい運動もしている。現在、無症状でも、血管にかかる流体力学的負荷は、普通の人より大きい。即座に手術を選択した。それは、大動脈弓全体を人工血管で置換するものだ。

ただ、この手術は動脈硬化の進んだ血管に手を加えるため、血管内壁に付着したチーズ状アテロームが飛んで脳梗塞を起こすことも多い。半身不随を起こす危険さえある。

入院先は大動脈外科では日本で最も症例も多く、成績もよい川崎幸病院大動脈センターである。

選択は正しかった。

昨年クリスマスの翌日、起床すると、嗄声のため声がほとんど出ない。迷走神経の一枝は、頸部を通り、胸部の大動脈弓の下まで降り、弓を引っ張り上げるようにまた上昇し、声帯にまで達している。反回神経の名がつけられた所以だろう。

大動脈弓にできた動脈瘤が急速に大きくなる時には、反回神経を引っ張るため、声帯が麻痺し、嗄声が現れることがある。

年明けて、音声学の専門家に診てもらうと、やはり左の声帯が麻痺していた。入院が数日早まった。白梅が盛んに咲いていた。

白梅や 花びらほどの 数の日々

 

入院に際して、読みかけていたティク・ナット・ハンの“The Heart of Understanding”を持ち込んだ。薄っぺらな般若心経の解説書である。

このべトナム出身禅僧の講話が好まれ、広く読まれるのは、その平易で詩的、絵画的で爽やかな比喩によるところが大きい。

存在論の中核「在るということ」つまり、”being”、ひとつを取り上げても彼の説明にはハッとさせられる。

「もしあなたが詩人なら、この一枚の紙の中に白い雲が浮かんでいのを観るでしょう」といった出だしで、紙の中には雨、太陽の光、森、木こり、木こりの持参する弁当のパン、パンの元の麦、木こりの親、またその親など、諸々のつながっている存在が見えるはずだと言う。事実そこには、時間、空間、大地などのすべてが「共に在る」のだ。

紙が「在る」というよりも、紙には、紙以外のすべてが「共にある」と説く。「在るということ」、”being”ではなく、「共に在ること」”interbeing”が現実なのだという。さらに正確に表現するならば、「他の存在に関係づけられて在る」だろう。

宇宙のもろもろが「共に在る」というなら、なぜ、「紙」があるというのか。宇宙が「共に在る」ならば、世界はつながった連続体として見えないのか。実際、現代言語学の創始者ソシュールは、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通してみる以前は、連続体である、と説いている。

たとえば、虹は日本語では七色として区別しているが、英語では六色、アフリカ・ローデシアのある言語では二色である。これらの言葉を使う人は、虹を六色あるいは二色として見ている。言語の網で、連続した世界を区切って、「何かが在る」と言っている。そして、「それ」が在る、と言ったとたんに「それ」以外のすべてが捨てられ姿を消すのが言語の不思議である。

 

術後の経過は順調だった。

八時間続いた手術が終わり、「終わりましたよ」という声で目覚めたのは翌日だった。

「手足は動きますか」。確かに動く。大きな脳梗塞はなかったようだ。即日歩行練習を始める。高齢者は大きな手術後、時間や場所の見当識が損なわれ、幻覚も出やすい。それも現れなかった。集中治療室には一日いただけで、個室に戻った。

術後、二つの意味で世界体験が変わった。

まず、健康人なら、ものを飲み込むとき、両側の声帯がぴったり合わさっているから、気管に水や食物が入ることはない。私の場合長時間気管挿管を行ったうえ声帯の萎縮があるため隙間がある。呑み込むのが可能になるまでには、食物を咀嚼し、糊状にならなければ呑み込めない。水もとろみをつけなければ飲めない。五分で食べていた食事が四十分もかかるようになった。

坐禅のような瞑想では、導入において呼吸のひとつひとつに注意を向ける。呼吸を意識しない日常で対峙する世界とは、異なる知覚であり経験だ。同様に一口の食べ物をゆっくり百回咀嚼し、味と香りを楽しむのは、異次元の体験である。

ご飯を口に入れ,噛みはじめると、ほの甘く、柔らかく、しかも優しい歯ごたえが口腔に広がる。噛んでいると味が微妙に変化し、病院食の里芋の煮物のようなおかずとの混ざり具合にぞくぞくする。美味である。ごく普通のおかず、炒り豆腐、鶏のから揚げ、味噌汁などでもそれぞれの悦楽がある。食べることは、視覚、嗅覚、味覚、口から食道、胃の腑に至る、全身の感覚器官を通じて味わう「世界体験」である。

もう一つの体験は、覚醒する際に特に鮮明に感じたのだが、世界のあらゆる存在は私と一体だという感覚である。

これは、最初、ティク・ナット・ハンを読んだ影響かと疑った。親切な看護師が来ても、若い医師が話しかけてきても、ベッドや食事のトレイを見ても、自分がそこにいる。同時に、安らぎが身体全体を満たしている。断じて幻覚ではなかった。世界体験である。だれの顔を見ても、自然に微笑むのだった。

術後のリハビリは、一往復百メートルの廊下を歩くこと。これを「驚異的」ペースでこなして、術後十二日で退院した。

体力を消耗し、リハビリはきつく、嗄声の改善ははかばかしくない。しかし世界は新しく輝いている。きっと「恍惚の人」となったのであろう。

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