不安のない生活(30)呼吸について(3)(ケセラセラvol.86)
医療法人和楽会 理事長 貝谷久宣
呼吸は吸って吐くのか吐いて吸うのかどちらが先か考えたことがありますか? このシリーズの初めに、人は生まれてくるときオギャーと言って息を吐き、死ぬときは息を引き取って天国へ行きますと記した。「呼吸」という言葉自体も吐く方が先で吸う方が後である。ある会議で山岳家の今井通子さんが、「息は吐いてから吸うものですから」とおっしゃっていた。なるほど、登山する人は息を吐いて登り、そして吸ってまた登るものだなと思った。
筆者は、吐くのが先か吸うのが先か疑問を持つようになった。というのは、瞑想では呼吸に注意を集中するのだが、瞑想の指導の仕方が流派によって異なっているからである。坐禅瞑想の場合、曹洞宗や臨済宗の多くの大乗仏教の指導者はまず息を吐くと述べている。ところが、小乗仏教のアーナーパーナーサティ・スートラ 安般守意経―入息出息に関する気づきの経―では息を吸う方から始まっている。アーナーは息を吸うことであり、パーナーは息を吐く意である。サティを昔は守意と訳していたが、現在ではマインドフルネス、すなわち、気づきと訳されている。その経には次のように記してある。“瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く”と。そして、“「全身を感じながら息を吸おう。全身を感じながら息を吐こう」と訓練する”と最初の4考察目に記されている。
さてここで、呼吸の仕組みを図で勉強しよう(図)。
呼吸には横隔膜が主に使われる。横隔膜は横隔神経によってコントロールされている。延髄にある呼吸中枢は横隔神経に指令を送り横隔膜を自動的に収縮させたり弛緩させたりしている。このメカニズムで私たちは睡眠中も無意識に呼吸をしている。呼吸も脈拍も自律神経に支配され、その時の環境に適応した動きが自分の意識なしに行われている。心臓の動きは自律的で、自分の意志でその動きを変化させることはできない。一方、呼吸は自分の意志でもその速度や深浅を変えることができる。それは、横隔神経は大脳皮質からの神経支配があり、随意的に横隔膜を動かすことができるからである。このように呼吸は自律神経にも随意神経にも支配されているので、自律神経と随意神経の交差点ということができる。呼吸という行為により、随意神経を通じて自律神経に作用を及ぼし、さらに、自律神経から精神状態に影響を及ぼすことができる。この原理を使ったのが自律訓練であり、瞑想でもある。
さて、初めの命題に戻ろう。私は先日、産婦人科を開業している同級生のN君に電話をした。彼はこの歳になっても毎月40人前後の赤ちゃんを取り上げているという。私は赤ちゃんが生まれる瞬間の様子を聞いた。生まれるまでの赤ちゃんのいる子宮体内は羊水で満たされているので、赤ちゃんはまず羊水を吐き出すという。そして息を吸ってからオギャと泣くのだと説明を受けた。息を吸うときは戦いのときに優勢になる交感神経が働く。すなわち、息を吸うのは吐くよりも努力を要する動作である。私たちは緊急時にはっと息をのみ、安堵した時は胸をなでおろし、息を吐くのである。赤ちゃんは生まれてすぐまず空気を吸うという努力によって人生を始めるのである。あの世に行くときは息を引き取るといわれている。
本当はそうではなさそうである。死が近づいて体力が低下し、横隔膜がもはや収縮する力を失うと下顎呼吸となる。横隔膜を中心にした胸郭を使った呼吸が不可能となり下顎で喘ぐように呼吸する。懸命に息を吸う状態だ。そして、最期は溜息のような大きな息を吐いて亡くなることが多い。すなわち、吸息の努力を懸命に続けた後に呼息状態で終わる。要するに、人生の最後は副交感神経支配の安楽な呼気で終わるということのようだ。死は苦しい生から安息の世界への入り口だと考えられる。